明治30年3月26日、法律第14号「関税定率法」(32年1月1日施行)同日法律第15号「保税倉庫法」公布(7月1日施行)、さらに明治32年8月4日改正条約および「関税法」の施行によって、「借庫」は消滅し、この時から、従来の外国人を本位としたものから、内外人一律に適用される保税倉庫となった。扱い品目は貿易貨物である。
保税倉庫の蔵置期間は、庫入の日から満1か年、この期間を経過して引き取り手のない場合は無請求品として公告し、6か月を経ると競売に付する。「借庫」の預り証書(ワルラント)は、従来単なる債権的証券であったが、同法によるとあわせて物権的証券として流通しうる。また官設保税倉庫の預り証書の一部出庫の場合は残高に対し新証券を発行しうる。倉敷料は、明治30年6月大蔵省告示第29号で定められたが、従量率または従価率により、歴月による2期計算を採用していた。この保税倉庫制が設けられるや、各税関では、ごく小規模の官設保税倉庫を設置した。だか、その利用は、徴々たるものであったという(『日本倉庫業史』)。特に函館港では入庫貨物が少く、余り多く利用されなかった。官設倉庫の沈滞は、営業倉庫という資本の進出によって、決定的となる。この意味では、税関の倉庫機能が、分化し、輸出入用の上屋、倉庫と、国内移出入用の倉庫とに、二分されたともいいうる。関税法施行前は、上屋規則により、税関に送致した貨物は72時間内に引取、発送または庫入をなさざるときは税関は貨主の負担でこれを借庫に移すとされていたが、借庫が自然消滅したので、税関は保税倉庫の一部を以て収容倉庫として、兼用させた。