明治26年7月1日施行の旧商法(会社編とこれに関連した商業登記簿および商業帳簿に関する部分および手形編、破産法編)が施行された。明治17年脱稿したロエスラーの商法草案に問題があり、差支えない部分だけ施行したのである。明治32年2月9日法律第48号の新商法(同年6月16日施行)は、倉庫業について、その第9章「寄託」中、第2節として「倉庫営業」なる独立の1節を設けた。旧商法では、第1編第10章の「信用」に第3節として「寄託」の項を設けたが、不十分であった。新商法は、「世界各国の立法例の粋を採ったもの………で本邦の倉庫業に確固たる新秩序を支え、斯業の地位、機能を昂揚せしめたのである」(『日本倉庫業史』)。「倉庫証券に関しても、之が文言証券であること(第361条)、処分証券たること(第362条)引渡証券たること(第363条第1項)及び引換証券たること(第379条)を確定した」(前掲書)。
ただし、その第357条「倉庫業者ハ寄託者ノ請求ニ因リ寄託物ノ預証券及ヒ質入証券ヲ交付スルコトヲ要ス」という所謂複券制を採用し、「此の点は相当急進的な試みで、終に有名無実に終った」(前掲書)。なぜなら日本の倉庫証券は、従来、単券制度をとってきたのであり、複券制が、フランス、ベルギー、イタリア各国が採用しつつある世界情勢とはいえ、日本の実情に適当ではない欠陥もあったからである。これは、ただちに大きな問題となり、単券制実現をめざして、倉庫業者が大同団結、日本倉庫業連合会が、明治33年に創立された。目的は複券制を改正しながら存置し、別に単券の倉荷証券を設けることにあった。
日本倉庫業連合会は帝国議会へ建議、銀行業界の積極的支援の下に、商法改正を運動、ついに、10年後の明治44年5月3日、商法改正案が公布、10月1日から施行され「倉荷証券という単券の倉庫証券が出現された次第であり、爾後、複券は取引業界から次第に姿を消していったのである」(前掲書)。以上の、法律、とくに、新商法およびその改正が、全国的倉庫業界の組織を結成せしめたのみならず、基本的に、倉庫業の法律的基礎を固め、それによって、明治30年代以降における倉庫業の確立とその発展との基礎条件となったのであるる。この全国的な倉庫業の確立、発展に対応して、函館の営業倉庫もまた、確立、発展するのである。