函館港は、明治20年代すでに限界に達しており、それ以上の船舶需要に応ずるためには、当時遠浅の海岸だった海岸町、若松町を埋立て、ここに新しい港湾施設を新設する外はなかった。その施設は、益々大型化し機械化する蒸汽船の大量貨物、大量旅客輸送に耐える近代港湾でなければならなかった。函館港の場合、それは国鉄青函連絡船桟橋造成の強制という形をとる。その原動力は函樽鉄道である。
また北海道の内陸部拓殖の遂行にも札幌、小樽、函館を結ぶ鉄道の新設が必要であった。札幌は道庁、拓殖資金を一手に握る国家の代表の所在地、小樽は幌内炭、石狩炭田の積出港、函館は産業資本の群集する後方兵站基地である。この3都市の連絡は、それまで主として船舶および道路に頼っていた。函樽鉄道の実現は、誰しも至当とする所であった。