日本郵船株式会社がこれに着目する。明治18年創立の日本郵船は、同時に青森、函館間について毎日の一定の定期航路(浪花、志摩、貫効の3船)を持っていたが、この炭礦鉄道開通を利用し、明治26年2月、青森、函館間の航路を室蘭まで延長し、玄武、田子浦、青竜の3船をもって毎日1回の定期航海をなす事になった。いわゆる3港連絡航路である。つまり、この3港連絡航路によって、青森~函館~室蘭3港の定期航路が、貨客を迎えることになる(『青函連絡船史』)。すると、函樽鉄道の開通は、この日本郵船~北炭路線と競合することになろう。明治28年6月7日の「小樽新聞」は、次のように報道している。
函樽鉄道と室蘭線 函樽鉄道敷設問題は日清戦争終局以来、頓に人気を博し私設として敷設されんことは今や殆ど疑いなからんとす、就ては若し一朝これが敷設を見る暁には、其尤も大影響を蒙むる者は炭礦鉄道会社にして、就中同社の室蘭線なりとす、他なし、同鉄道にして敷設さるる上は、是迄室蘭を経て原野に入り又は札幌に来るの人々は、以来此鉄道の搭乗するを便として、乗客の上に大影響を波及するを免れざれば、従って又同会社の営業上に大々の損失なしという可からず、されど今、同会社員の語る所に拠れば、会社の室蘭線は向後多年の間政府より補給利子ある事にて、一朝函樽間の鉄道敷設され、同会社に多少損失蒙らしむるとも、之れに対する補給の利子は優に之れを補うて余りあるのみか、同鉄道敷設さるれば内地各地方の人をして自然足を北海道に導いて本道に旅客を多からしめ、果又会社を利するや論なければ、いわば函樽鉄道の敷設如何は同会社の痛痒と感ぜざる所なりとなり。 |
これは、北炭の強がりである。明治39年10月1日、北海道炭礦鉄道株式会社所属線200マイル余が国有化で国に買収されて間もなく、恐慌が起り、三井が乗出して大正2(1913)年、株の買占めにより、北炭は、あえなく、三井系列化になってしまうのである。
この北炭の所有する札幌~岩見沢~室蘭線の存在がなければ、室蘭~伊達紋鼈~長万部~森~函館と新線を敷き、これと北炭既設線と連絡する、現在の千歳線経由、函館、札幌線敷設の構想も茅生えたかもしれない。現在の状況からみると、なぜ、函樽鉄道が長万部から北上し、小樽まで困難な山岳地帯をあえぎあえぎわけ入らねばならなかったのか、しかもそれをとも角も私設鉄道として完成せしめたのか、不思議な気さえする。小樽、室蘭港が道庁即ち国家の全国的支援により急速に抬頭するこの30年代、後述するように、これに対抗する函館商人資本群(豪商)の見せた意地を見る思いがしてならない。
これに関連するが、このコースが、細い獣道程度の規模であったとしても、とも角も、明治4年、民間人によって道路として開かれていたことを忘れてはならない。もし、この道路がなかったら、工事自体に、支障を来したのであろう。鉄道工事には、大変な労働力と共に、資材運搬、宿舎設置を必要とする。そのために、先行道路が必要なのである。
しかもこのコースは、道庁も、薩摩藩及びその系統の黒田清隆系も、北炭も、全く関係していなかったから、その妨害も考えられなかった。即ち、明治3年7月、東本願寺大谷光瑩ら僧、信徒178人が函館に上陸、9月尾去別、中山峠、札幌山道の計108キロメートルを開削した本願寺道路のことである。明治19年6月、このコースの黒松内山道、函館、長万部、寿都、歌葉、稲穂嶺の険にも遂に、馬車を通じ得たことも助けになったであろう。