大久保内務卿の建言と第一命令書

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 政府は従来の官船運用主義、すわなち官船を民間会社に運用させるという方法から三菱会社に対する官船の払い下げの保護政策へと転換をした。明治8年5月18日、大久保内務卿は、海運行政に関する建議書を三条太政大臣に提出した(『大久保利通文書』第6)。この建言は政府の取るべき海運策は現今では3通り考えられるが、その(1)は民間が海運業を独力で行いうると判断される時は、政府は規則、条例を設け、これを遵守させるにとどめるという「自由放任主義」、(2)は民間で独力で経営するまでに至ってないとすれば、政府は諸船主を連合させ、これに政府所有の船舶を下付し、かつ補助する「民間海運業の保護」、(3)は民間の海運界が(2)の域にも達していないとすれば、政府自らの経営をするというものであった。大久保はこれら3案についての得失について論じたうえで、第2の方法を重視した。政府は7月に大久保の主張を入れ民営保護の方策を採用した。そこで大久保は「着手方法見込書」を提出して、大規模な海運経営を担当できるのは郵便蒸気船会社が衰退している現状では三菱のみであるとした。これに基づき9月に17条におよぶ第一命令書が三菱に通達され、東京丸など13隻の汽船が無償で下付され、また年額25万円の運航助成金が支給されることになった。同月18日にこの命令書に従って社名が郵便汽船三菱会社と改称された。ついで解散した郵便蒸気船会社の船舶17隻も三菱に無償で下付された。明治8年末でわが国の汽船は149隻、4万2304トンであったが、三菱はそのうち45隻、3万トン余の汽船を所有することなり(『荘田平五郎』)、当時の主要汽船の大部分が三菱に集中し、海運界における同社の独占的な地位が確立されてゆくのである。