政府の海運政策の転換

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 いわゆる「明治十四年の政変」を契機として政府の海運政策が変更され共同運輸会社が成立した。政変により、井上馨、伊藤博文らの薩長派政府になり、大久保、大隈の進めた路線、つまり三菱に対する保護政策が修正されはじめた。15年2月に政府は三菱に対して「第三命令書」を下付し、海運業以外の業種にも手を伸ばしている三菱への拘束を強め、かつ独占化による三菱の運賃の恣意的な値上げを牽制しようとするものであった。しかし、こうした命令書も政府部内には、わが国において三菱が唯一の有力な海運会社であるという認識があったため、いきおい妥協的にならざるをえなかった。ところが同年4月、在野した大隈が改進党を結成し、藩閥政府に対する攻撃が始められると、政府は三菱の保護者的存在であった大隈を意識して、三菱の勢力を抑えようと意図するようになった。
 同年春、前に述べた三井系の東京風帆船会社が事業拡大を計画し、増株募集を図ったが、不成績に終わったため、政府へ資金の貸下げを請願した。「日本郵船創設記」(『渋沢栄一伝記史料』)によれば、同時期に、北海道運輸会社や越中伏木風帆船会社からも同様の請願をしたとある。ただし北海道運輸会社については実際そのような動きをしたかどうかは資料上で確認できない。政府は、この機会をとらえ、新たに三菱に対抗する海運会社の設立を計画した。5月30日、農商務省は、半官半民の海運会社の設立に関する伺いを政府へ提出した。共同運輸会社の設立の発端から創業にいたるまで一切が官主導で進められる。伺いでは三菱や三井が多数の船舶を所持しているが、なお外国船をチャーターするなど依然として船舶不足の状態であり、海運業を政府の補助のもとに創設する必要をとなえ、資本金を400万円とし、その内200万円を政府が出資して、残り200万円は全国各地から株主を募集して政府が発起者を選び、創業へと運びたいというものであった。
 伺いでは三菱について一切触れていないが、これが薩長派政府の三菱に対する攻撃の第一歩であった。伺いは7月12日に許可となり、政府からは130万円を交付し、社名を共同運輸会社とすると定められた。この新設会社の創設は三井との結びつきのある参議井上馨の画策になるもので、井上の意向を受けた農商務大輔の品川弥二郎が中心となって動いた。