日本郵船函館支店 『実利実益 北海道案内』より
日本郵船の北海道関係航路は前記の各航路で分かるとおり函館と小樽を中心として展開している。道内での鉄道網が未整備のこの時期は依然として海運による沿岸航路が重要な位置を占めていたことはいうまでもない。郵船の函館支店は営業開始直後の18年10月1日から船場町の旧三菱支社と東浜町の旧共同運輸支社の両所で開始されたが、同月8日からは旧三菱支社の1か所となった。初代の函館支店支配人は旧共同運輸の園田実徳、副支配人が旧三菱の榊茂夫であった。
前述のように函館に関係する航路は発着、寄港を含めて5つの路線が指定された。10月16日の「函館新聞」には神戸・函館(横浜・荻浜経由)間の定期便の日時が決定したという記事が掲載されている。函館着が日曜、木曜の午前6時、函館出港が火曜、土曜の午前8時と週2往復の便で東京丸などが就航、とあるが、この航路は三菱・共同の競合末期には月16往復であったものが、合併により月8往復となった。これは競合期に過度の配船を行っていたことを物語っていた。なおこの定期便とは別に函館・横浜間に週1度の臨時便を就航させることになった。創業直後の函館での反応を「函館新聞」で見てみよう。一つは18年11月8日の「荷主の口説咄し」と題する記事で三菱共同両社時代は互いに荷主、船客の扱いが丁寧であり、「一言半句の小言も耳に入らざりしが」合併されて航海権が一手に帰し、従前通りの扱いが期待されていたにも係わらず「近頃荷主の困却囃しを聞くに両社合併以後荷物の取扱ひ余ほど粗漏となり」と苦情記事が掲載された反面、同年11月11日の「荷物の払底」という記事では三菱時代に引き受けた貨物が新会社引継ぎのため輸送されず数万石滞貨していたが、郵船では荷主である函館の海産商が困却しているのを知り、定期便のほかに臨時船を出して毎日のように東京や大阪に積み出したため貨物が払底して、9日に出帆した長門丸は船腹が半分にしかならなかったと報道して郵船の迅速な対応を伝えている。
郵船の本州方面の航路は横浜本社の管轄下にあったが、函館を起点とする道内航路や青函航路は函館支店の管轄にあった。このため函館にも定繋船を配備したが、25年時点では田子ノ浦丸(541登簿トン、以下同じ)、播磨丸(447)、北海丸(437)、青龍丸(453)、玄武丸(433)、松前丸(445)、千歳丸(325)、貫効丸(214)、矯龍丸(123)、室蘭丸(46)の10隻であった(『開拓指鉞北海道通覧』)。郵船は函館・横浜・神戸間といった対本州の基幹航路には1000~2000トン級の大型船を就航させ、道内航路や青函航路については1000トン未満の中型汽船を就航させた。
ところで郵船の汽船に対する貨物船客の取扱に関しては、旧三菱・共同時代は函館では19軒あったが、郵船の時代となり18年12月には15軒となった。このうち宮重文信、和田惟一、運漕社、納代東平、川口善太郎、大塩市平、三橋和太郎、田辺三吉(いずれも東浜町)の8軒は荷物、船客ともに扱い、中村茂七、勝田弥吉、岡七郎兵衛、内山金兵衛(以上東浜町)、内田利平(堀江町)、相川洗心(豊川町)、林チウ(同)の7軒は船客のみ扱うことになった。20年1月には荷物取り次ぎ所が変更となり和田、納代、川口、田辺の4軒が貨客、勝田、中村、岡が船客のみと変更になった。15軒の回漕店を7軒に減らした理由としては手数料支出を押さえて経費節減を計ろうとする意図によった。以後郵船への回漕取り次ぎ店は大体7、8軒の回漕店によってなされた。