青函航路と東北鉄道の開通

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 従来から青函航路は本州と北海道を結ぶ航路として、特に乗客を運ぶ航路として重要視されていたし、三菱と共同運輸が競合した時には両社とも隔日で定期便を就航させるほどの基幹航路であった。政府もこうした点を踏まえて毎日1往復の定期航海を命じた。三菱・共同運輸時代には両社は出帆日をずらして就航させていたため、ほとんど毎日のように便はあったが、郵船の時代になり始めて毎日の運航が実現したといえよう。
 ところで、この青函航路も東北鉄道が開設して比重がさらに高まっていくのである。24年9月に日本鉄道会社が上野・盛岡間の鉄道を青森まで開通させたことで上野・青森間の全通をみることになった。東北線の開業にあたり「函館新聞」は24年9月2日の社説「青森鉄道全通す」のなかで、鉄道開通の函館への影響は2点あるとして、1点目は従来青森県下から上京する場合は函館に出て、函館から定期船によって移動していたものが、直接同地から東京方面に向かうであろうという点、ただしこの影響はさほど大きいものではないとして、2点目が小樽方面からの貨物が函館を集散地としていたものが、小樽から青森に直航する度合いが高まり、さらにウラジオストク方面の航路も小樽中心となり函館の今日の隆盛が今後も保証されることにはならず鉄道開通を対岸の火事として傍観することはできないといった危機感を訴えている。この社説は函館と小樽との比較という点に注目して論じたものであるが、開通後の青函航路の事情はどのようになっていったのであろうか。
 同年9月9日の「函館新聞」は青森行きの船客は増加し、荻浜行きは大いに減少したと報道する反面、同月13日では全通直後は上京するのに青森経由が多かったものが、近日にいたり函館・神戸定期船による乗客が増加したと報道している。しかし、乗客の動向として神戸線によるものより青函航路によるものが増加しはじめたようである。12月2日の「北海」には11月の船舶別の乗降客数を掲載し、特に上り便で青函航路の乗客が増加していることが顕著であると述べ、その原因として商業者が東京などにおもむく場合には神戸行きの定期便を利用する場合が一般的であったが、鉄道を利用するものが増加したためであると報道している。
 こうした傾向を表すように26年の『函館商工業調査報告』には「青森鉄道開通以来船客ノ往来ヲ増加シタルハ勿論近県貨物ノ当港ニ集マルモノ益々多キヲ加ヘ又当港ヨリ近県ヘ輸出スルモノ愈々多キヲ加ヘタルハ争フベカラサル事実ナリ以テ当港ノ益々後来ニ有望ナルコトヲ知ルヘシ」とあって、新聞の論調とは異なり北東北の中央市場向けの産物のある部分は青森を集散地として、青函航路に積み換えられ、そして函館に集荷されていった。また函館からも青函航路により貨物輸送がなされ、その市場の拡大といった面を生みだしていったのである。結局鉄道全通が青函航路の重要性を高め急激に北海道への渡航者と貨物を増加させた。さらに27年12月の弘前・青森の奥羽鉄道の開業もそれに拍車をかけた。また貨物の移動にとどまらず、旅客の移動も大きく変動していっている。例えば、函館・荻浜・横浜間と函館・青森間の旅客数を比較すると25年11月から26年10月まででは前者が8914人、後者が7万1063人であったものが26年11月から27年10月まででは前者が6746人、後者が8万1374人となり、青函航路の旅客数の増加が顕著であるのに対して、横浜便の利用数が減少しているのは明らかである(『北海道庁第九回勧業年報』)。
 25年8月に北海道炭坑鉄道会社が室蘭(輪西)・岩見沢間の鉄道が開通して札幌・室蘭が結ばれたために郵船会社は翌26年2月に青函航路を室蘭まで延長し3港定期航路を開設した。この便には当初玄武丸、田子浦丸、青竜丸の3隻を配船して毎日両港を発船し、函館に寄港した。この結果森・室蘭航路は廃止された。なお当時の青森の「東奥日報」には青森出帆が毎日午後10時、函館着は翌朝5時、函館出帆が同午前8時、室蘭着午後6時、一方室蘭からは夜12時出帆、函館着午前10時、同出帆が午前0時で青森着が午前7時とあり(『青森市沿革誌』)、函館・青森の所要時間は7時間であった。この3港定期便の開設により本州と北海道の中心地札幌や内陸部との交通が一層推進され、貨客輸送量も増加していった。『殖民公報』(10号)によれば「現今移民の来住多くは概して室蘭港を経過するを便とする方面に在り殊に奥羽北線鉄道線の延長するに従ひ青森港より渡航するもの増加の勢を示したれは此等の移民一旦函館へ上陸し小樽方面へ回船を待つの不便免れしむるもの全く本航海の効功に帰せさるへからす」と述べ、本州からの移住民が従来は函館で1度上陸し、それから小樽行きの便に乗り換えていたものが、室蘭経由の移民も32年に695人、33年には2645人、34年には4619人と順調に増加しているのもこの3港定期便によったものであるとしている。また31年以降航海時間の短縮がなされ、室蘭方面の産物も販路の拡大につながっていると述べられている。ただし室蘭・青森間の貨物運賃が函館・横浜間のそれとほぼ匹敵する高運賃であり、1社独占の弊害により地方産業の発達を阻害していると指摘している。
 この青森・函館・室蘭の3港航路も30年前後になると増便を望む声が起きてくる。29年の末には郵船の函館支店が本社に対して配船増と増便の要望を出している。これを受けた本社では月2回の増便を予定し、あわせて1000トン級、3隻の新造船の計画を立てた。これと同時に日本鉄道と炭礦鉄道に対して、それぞれ鉄道便も増便するように要請した。こうして30年10月からそれぞれ増便することに決定し、これを受けた鉄道各会社はただちに実施した。ところが一方の郵船は船の手配など思うにまかせず実施できなかった。このため12月に道庁から逓信課長心得が来函して函館支店と協議したが、同社は欠損の出る可能性があり、簡単には実施できない、そして経費補助の必要があると出張するにとどまった。この増便は結局郵船は実施しなかったが、船繰りの問題はあったにせよ、鉄道と船便との連絡を強化することが、特に本州北部の貨物輸送が鉄道に取って変わられるという危機感から、あえて増便に応じなかったと考えられる。
 3港定期航路は本州と北海道を結ぶ主要交通路として輸送量が増加してきた。そのため日本郵船は貨客輸送の増強と輸送時間を短縮するために政府補助を受けて36年7月1日からはこの3港定期航路とは別に青森・室蘭間の直航定期便を開いた(『北海道奥羽沿海商業之状況』)。前月の臨時航海を経て陸奥丸(570登簿トン)と東海丸(896登簿トン)を配船したが、ちなみに当時の3港定期便、直航便と鉄道との連絡便は表7-18のとおりである。
 なお3港定期航路は37年の函館・小樽間の鉄道全通により貨客が鉄道便に奪われ利用が減少したので、39年に函館・室蘭間の運航は廃止された。
 
 表7-18 定期便と鉄道の連結便
区分
既設3港定期
青蘭直航便
日本鉄道線
 
青森室蘭定期船
 
 
 
北海道炭礦線
上野発 午前10時40分
青森着 午前7時10分(翌日)
青森発 午前11時30分
函館着 午後5時30分
函館発 午後10時
青森着 午前5時(翌日)
室蘭発 午前7時10分
札幌着 午後2時
上野発 午後7時45五分
青森着 午後4時31分(翌日)
青森発 午後10時
 
 
室蘭着 午前10時(翌日)
室蘭着 午前11時30分
札幌着 午後6時20分

 明治36年6月28日「函館公論」より