表7-22 函館在籍船舶一覧
年次\区分 | 汽船 | 西洋形帆船 | 日本形帆船 | |||
船数 | 登簿噸 | 船数 | 登簿噸 | 船数 | 石数 | |
明治16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 | 1 … … 6 8 15 … 23 25 26 30 35 41 49 59 62 56 46 54 53 53 57 61 | 1 … … 298 448 2,598 … 2,732 3,292 3,621 3,・984 5,153 4,938 6,655 7,423 7,558 17,541 13,949 20,466 19,915 21,362 21,836 25,705 | 71 … … 60 61 68 … 73 71 62 57 51 45 54 58 85 83 78 92 102 99 98 92 | 4,186 … … 4,618 4,610 4,790 … 5,234 4,957 4,569 4,390 3,955 3,560 4,375 4,762 7,628 8,234 7,414 9,865 11,680 11,460 11,474 10,806 | 57 … … 51 981 53 … 52 55 36 … … 44 39 48 38 6 2 3 3 4 3 … | 10,067 … … 10,934 9,434 10,759 … 10,213 11,678 7,224 … … 9,633 10,518 15,871 10,013 2,745 458 1,107 1,847 2,889 2,640 … |
『函館市史』統計史料編より、…は不明
ただし24年は24年2月13日「北海」、26年は『函館実業老便覧』による
31年までは登簿噸数、32年からは総噸数
函館所在の船舶は明治前期が和船から西洋帆船への移行を特徴としたが、後期は汽船の増加が顕著となってくる。表7-22は函館在籍船の船種別の推移を示したものであるが、汽船は21年に急増し、日清戦争後にさらにその増加が顕著となった。27年以降はほぼ汽船が西洋形帆船の噸数を上回るようになって汽船中心の状態を呈している。しかし西洋形帆船も横ばい傾向を示しながらも、31年から微増傾向を見せる。なお、32年に船舶法の公布によって統計上の表記が変更された。すなわち汽船は登簿噸数から総噸数の表示方法に変わるために、数値的には急激に増加しているようにみえる。他方和船は急減しているが、これは200石未満のものは船舶法の適用外となったために統計上では省略されたためである(明治32年『函館商工業調査報告』)。従って函館船籍の和船の大部分は200石未満の小型のものが多かったということになる。なお、登簿トンは総トンから機関室と乗組員常用室の部分を控除したものであり、搭載可能容量に近い数値といえる。西洋形帆船の場合は総トンと登簿トンの違いが小さいのは機関部の容積がないことによる。登簿トンはすなわち貨客の収容スペースであり、積載能力を意味する。西洋帆船は機関部がないため総トンとの差はあまりない。明治後期の船種別用途をみると、西洋形帆船は前期と同様に沿岸輸送に従事しているが、露領方面の出漁期には外国航路用に用途変更をして航行し、その時期を過ぎると再び内国航路に戻った。また和船は地回船と称して近郊の魚類、蔬菜類の運搬に用いられている程度であり、函館の海運事情を大きく左右する存在ではなくなっている。函館の汽船は不定期航路に大きな比重を占めたのであった。道内はもとより青函航路や、本州諸港との航路に多角的な展開をみせている(『北海道奥羽沿海商業之状況』)。
20年代以降に登場した函館の汽船船主は前述した函館汽船を除くと、すべて個人所有であったが、彼らのうちには本業とは別に海運業を自己の営業種目とする商人階層の出現をみることができる。また日清戦争以降の函館船籍の汽船の増加は単に函館商人の所有の増加だけではなく、函館以外の船主が函館を根拠地として海運活動にのりだすようになってきたことも反映している。まず個人の汽船船主としていちはやく海運業に着手した渡辺熊四郎の金森回漕組の動向を取り上げてみよう。