開拓使兌換証券は政府紙幣の中で発行額が最も少なく、流通の期間が最も短かった。開拓使は主として北海道で発行したので、この地で流通したが、次第に全国に普及するようになった。しかし50銭以下の小券は、主として北海道で流通した。この証券の流通過程でも贋造が発生しているので、その予防のため小票を糊付けして証印を捺した。ところが、証印の朱肉が不良で消滅しやすく、これを利用して大額の贋券に貼るという者も出てきた。そこで大蔵省は当時発行中の新貨幣に押捺する官印の朱肉をもって証印するということを、5年6月に太政官に禀議して漸次これを施行した(『明治財政史』第12巻)。
この証券にたいする一般の信用は、大蔵省兌換証券と同様であった。当時はこのような官省札は既に信用は厚くなっており、正貨と平価に流通した。人民がかえって紙幣が軽便でよいと感じている時に、精巧な新紙幣が発行されて紙幣の信用が日に固まってきたので、兌換、不換に関係なく他の紙幣と同様に流通した。このような状況であったので、その後政府がこの証券の正貨兌換を新紙幣兌換に変えたが、流通上なんらの影響を及ぼさなかった。しかし不換紙幣をさらに増加したことになったのはいうまでもない。
ところが、この証券の流通額には、しばしば伸縮があった。他の紙幣の様に、常に発行額と流通額が同一でなかった。それは、この証券は当初兌換紙幣であったから、所持している人が正貨を必要とするときは、国庫に回収され、その引換額だけ流通額が減少するからである(同前)。
なお、250万円の証券は総て北海道開拓の資金に充用したのであるが、そのうち118万円は開拓使より管下の人民に貸付したものなので、開拓使が実際に直接開拓事業に使用した金額は132万円にすぎなかった。そのうち6割の84万円は札幌本道築造費にあてられた(『新北海道史』通説2)。