インフレの要因となった乱発紙幣の整理によって物価、金利は下落し、農民、下層士族は貧窮化していった。経済界にも破綻倒産するものが続出してきた。金融界でも投資の途が狭められ、すでに貸し出した資金は停滞して回収が困難となり、しかも抵当物件の値下りによってこうむった損失は著しく、銀行の閉店または営業停止を余儀なくされるものが続出してきた。反動的傾向は14年から始まって、15、16年と年毎に深刻の度を加え、17年に至って恐慌状態に陥った(前掲『日本金融史』第1巻 明治編)。
北海道においては、明治15年9月東京第四十四銀行(函館支店)は業務不振のため、東京第三国立銀行と合併することとなり、本道における営業は第三国立銀行が継承することになった。第三十三国立銀行は16年5月に支店を函館に設け、専ら大蔵省為替方御用に従事し、国税の取扱を行った。18年5月に、函館第百四十九国立銀行は東京第百十九国立銀行と合併し、本道における営業所を閉鎖した。ついで同年、東京第二十国立銀行が函館支店を置き、専ら為替、荷為替および海産物担保貸付の業務を開始した。この銀行は元伊予宇和島の藩主伊達侯爵家一族の出資に係るもので、当時伊達家はその財政を渋沢栄一に託していたので、その奨誘により明治10年7月に創成され、本道に支店(明治18年5月)を設けた。それは第一に行務の発展を未開の地に求めたこと、次は本道金融に貢献すること、「以て聖旨に副はんとしたるに在りたるものの如く」という時代の流れに来ろうとする戦略であろう(『北海道金融史』)。