後に述べる日本銀行出張所が明治26年4月に設置されたことと、日清戦争後の投資ブーム(産業資本の生成)によって、信用経済が発展した。その状況を函館でどう展開したのかをみてみよう。
明治24、5年ごろの函館には、地元銀行として第百十三国立銀行、支店銀行として三井銀行支店、第二十銀行支店、第三銀行など4銀行が存在していた。第一の問題点は日本銀行の支店が設置されていなかったことである。以上の各銀行が為替作用によって資金の決済ができない分に対しては、一々中央より横浜、荻の浜を経由して船便で現金の輸送を受けていた状態で、商業取引上における金融の恩典がいかに少なかったかを知りうる。
次は取引先に対する手形割引が用いられなかったことである。また当時見るべき有価証券等のなかったことによって、貸越貸付の担保といえば殆んど不動産に限られていた。
それに金利については、為替制度の不完備から、現金輸送の煩雑と危険を追随する関係上、預金利子は定期預金年8分ないし8分5厘、当座預金日歩2銭内外、貸出利率は日歩3銭5厘、荷為替日歩5銭などという驚くべき高率であった。これらの幼稚不便の時代は26、7年ごろまで続いた。
明治28年7月、日本銀行が従来大阪以外に支店を置かなかったのを、新に西部北海道の1支店を設置することとなり、北海道支店を函館に置くようになってから、函館の銀行界は面目を一新した。すなわち従来資金決済に当って現金輸送の煩雑と危険を忍ぶより仕方のなかった弊害が一掃され、為替作用の充分なる発揮を見るとともに、手形割引の制度も行われ、函館金融が初めて対物信用から脱して対人信用の機微に活躍することをえて各銀行の営業振りが一変した(徳根卯三郎氏談「函館銀行界の変遷」大正10年10月13日~15日『函毎』)。