安田銀行と硫黄鉱山経営

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 慶応2年の創業から明治9年頃までの安田商店の収入構成は、活動の多様性を反映して著しく変動したが、明治10年代になるといわば商業銀行的な活動の収入によって占められている。明治13年1月に安田商店は安田銀行に改組するが、資本金は20万円である。安田銀行は「合本銀行安田銀行」として、設立願書が明治12年11月11日に東京府知事宛に提出され、11月26日に許可された。「合本銀行」とはJoint Stock Bankの訳語であって、株式会社銀行の意味である。だが無限責任制で実質的には合名会社的性格が濃厚で、のち商法の制定にともない明治26年には合資会社に改組され、ついで明治33年には合名会社となった。支配と運営の実体においては、ほとんど安田善次郎の個人銀行とことなるところがなかった。
 安田銀行は、発足後わずか8年の明治20年には、自己資金のみで資本金100万円にまで急成長するが、その高蓄積の重要な要因の1つは、利益をすべて内部留保する制度であったといえよう。
 明治10年代後半から20年代前半までの不安定な時期にあって、安田銀行・第三国立銀行の支えとなったのが、明治15年に設立された日本銀行であった。それは善次郎が明治15年6月に日本銀行創立御用係心得を命ぜられ、10月の開業と同時に初代の日銀割引局長(理事兼任)に任ぜられたからである。また17年12月に辞職したが、22年8月に日銀監事、翌23年に日銀新築の主管となり、その下で建設関係事務に携さわったのが高橋是清であった。したがって金融逼迫時に日銀から融資を受ける場合や適格担保の株式を決める場合に有利であったであろう。安田系2銀行の預金が第一国立銀行を上回ったのは明治27年頃で、明治20年代後半の安田銀行・第三国立銀行の発展は著しかった。
 安田系銀行の双壁である第三国立銀行と安田銀行の違いを善次郎は巧みに使い分けていた。本人は「公」と「私」というふうに表現し(『富士銀行百年史』)、矢野文雄は、善次郎は第三国立銀行を「正戦」に用い、安田銀行を「寄戦」に用いたと評した(『安田善次郎伝』)。安田銀行を「私」的に用いた具体的事例として北海道釧路の硫黄鉱山事業との関連をあげることができる。硫黄山事業は安田銀行とは別個に「元締役場」の事業として行われたことになっているが(『安田保善社とその関係事業史』)、実は安田銀行が深くかかわっていた。善次郎の個人資産(「元締役場」資産)から出資金を捻出する際には、安田銀行で次のような提案がなされ、可決されている(安田銀行「会議簿」)。
 
明治二十年一月二十九日
今般北海道釧路硫黄鉱採掘事業、止ヲ得ザル場合ヨリ家長一己ニ引受ケ着手ヲ致ニ付、其資本概算金二拾万円ヲ前述ニ支出スベクニ付、家長所有之諸株券ノ内左之株券類売却致候テハ如何
 但シ売却予算左ノ通リ
第一銀行   拾株 売却代金 三千五拾円
第二銀行   拾三株   金三千七百七拾円
第十九銀行 拾株    金五百円
第六十銀行 六拾株   金四千五百円
日本銀行   弐百株   金七万円
瓦斯会社株 百八拾株 金弐万千九百六拾円
同   新株 四拾五株 金四千弐百七拾五円
海上保険株 弐拾株   金三千五百円
郵船株    百株    金七千五拾円
第三銀行   四百株   金七万弐千円
計金拾九万六百五円也                    

 
 これらの株式が安田銀行所有株式ではなかったことは、明治19年から20年にかけて安田銀行所有株に大きな変動がなかったことからも明らかである。安田善次郎の個人資産を安田銀行が管理していたので、善次郎の個人資産の処分問題が、安田銀行の重役会の正式な議題としてとりあげられたと考えるべきであろう。
 安田銀行が本来の業務ではない鉱山事業に深くかかわっていたことは、硫黄鉱山事業や釧路の春島炭田の石炭売却などを安田銀行員の薮田岩松や原田虎太郎が担当していたことからもわかる(由井常彦『明治期における安田財閥の多角化』)。また明治25年10月に、すでに第三国立銀行の支店の存在した函館に安田銀行函館出張所を設けたのも、硫黄山事業の為替取扱のためであった(『安田保善社とその関係事業史』)。
 「私」的な側面と「公」的側面は、安田銀行が株式を多数所有し、安田の持株会社的性格を持ったのに対し、第三国立銀行の方は株式をほとんど所有しなかったことにも示されている(前掲『安田財閥』)。