函館製革所とお雇い外国人

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 明治5年2月黒田次官は、ケプロンの進言に基づいて北海道開拓着業のために必要とする外国人技術者の雇用について政府に許可を求めた。そのなかに語学教師や汽船の船長、機関士、牧牛術などの技術者とともに皮師をあげている(「開日」)。開拓使は道内の豊富な皮革資源に着目し、外国人の製革技術者を雇用して、製革所を設立運営しようとしたのである。伺いが許可になると直ちに人選に入り、「お雇い皮師」としてアメリカ・ウィスコンシン州出身のマティアス・ウェルブ(Werve,M.)が採用された。この人選の経緯は不明であるが、他の「お雇い外国人」の場合はケプロンが人選の過程に大きく係わっている場合が多いことから、あるいは同じ事情によったのかもしれない。
 雇用契約は同年4月21日東京においてケプロン立ち会いのもとに榎本権判官との間で取りかわされた。採用期間は明治6年1月22日(陽暦3月1日)から2年間であった。月給125ドルに、別段手当てとして41.66ドルを支給することが取り決められた(「開公」5742)。技術者が決定したことで函館支庁は「函館製革所」の設立に取り組んだが、その開設の時期については諸説がある。『開拓使事業報告』によれば明治5年4月となっているが、明治5年「取裁録」(道文蔵)では10月設置としている。また明治15年の開拓使から北海道事業管理局への引継書類には5年7月とある(「各所校引継書類」『北海道事業管理局(工業)』上・北大蔵)。『開拓使事業報告』はウェルブの採用時を開所とみなしたのであろう。また「取裁録」の10月説は後述する「規則」の設定によったものであろう。製革所の運営はウェルブに一任されていたため、彼の函館赴任にあわせて開業の運びになったようである。函館赴任の時期は不明であるが、開業までの期間には機材類の購入や運営方法についてウェルブの指導のもとに進められたと思われる。
 いずれにしても5年中にウェルブの函館着任を待って東川町の徒罪場内に函館製革所が設立され、機材類の整備がされたと考えられる。当初は支庁の会計課の所管であった。5年10月に「製革場規則」と「製革生徒規則」を定めた。これらの規則は運営規則ではなく、前者は就業規則的なもの、後者は伝習生の募集や採用、あるいはその処遇等に関するものであった。草創期のためか函館支庁は皮革製品の製造にただちにとりかかるのではなく、ウェルブを製革の技術教師ととらえており、管下から修業者を募集して技術者を養成することにした。
 ウェルブは募集生のうちから中野才吉、篠田武治、中邨昌吉、宮崎秀次郎、保倉仁三郎の5名を推薦した。彼らは官給を受けて、製革所に付属する生徒として種々の製法を学ぶことになった。彼らとは別に懲役囚にも製造に従事させた。ウェルブの教授した製法は主材料を牛皮に求め、製靴用の表染、裏染および馬具等に用いる器械用の製革の3種であった。これらを教授しつつ製造された試製品は一部売りに出されたようであるが、その詳細は不明である。ウェルブは製法上に必要な材料を近隣に採取しつつ製法を伝授している。伝習生徒はのちに7名に増え、彼らの習得した方法については「牛皮製造方法」という演説筆記の記録として残されている(明治10年「報告書稿」道文蔵)。それによれば表染、裏染、馬具用の他に靴の底皮の技術も教授されている。6年9月函館支庁はウェルブの雇用期間の満期前に、当初予定されていた製法教授がいまだ不十分であるとして、7年の末ころまでの期間延長の伺いを東京出張所に提出した。同時にウェルブにも要請したところ倍額以上の給料を要求してきた。このため函館支庁はそうした要求は不当であるとして、またウェルブの教授ではこれ以上効果も上がらないだろうとまで言い切って雇用の継続は断念した。ウェルブは雇用期間は前に述べたように7年3月1日までであったが、本国到着までを採用期間に算入するという前例があったため、7年1月離函し、帰国の途についた。
 ウェルブが離函することになり、事業継続があやぶまれ、また将来的に採算可能かどうか東京出張所から問われた函館支庁では、6年12月に規則を更正した。それによれば伝習生の定員を現行の7名に限り、教師は当面伝習生のなかから熟達したものを充てることなどを定めている(「開公」5599)。また経営の見込みとしては施設、設備を充実させることで製造数も増すことができるとして、存立させるべく申し入れをしている。なお、指導者を失った製革所では、伝習生の1人である中野才吉が少々製法に通じていたため指導役となって製造にあたった。