工事費不足解決のため、35年日本勧業銀行より会社敷地を抵当に20万円の借入交渉をするが、8万円の融資を得ることしかできず、しかも工程の予算案を精査したところ、担任技師の違算あるいは脱漏に基づく資金不足が23万余円あることが発見(『郷土読本 函館ドック五十年の回顧』)されたといわれている。平田専務は病により専務を辞任(34年10十月)し、既に没しているので、園田専務をはじめとする経営陣は善後策樹立のため、35年5月、海軍省に船渠工事視察のための技師派遣を出願した。6月13日、石黒工務監が来観し、整理案の提示がなされた。それによると、最初の予算に無理のあった事、規模の拡張のため予算の拡張を来さざるを得ざる事、また工事遷延のため費用の増加を来した事等を認めるとともに、この際費用の節約を図り、姑息な工事をして、憂を将来に残してはいけないという内容であった。7月の臨時総会で借入または増資により60万円を調達することが決議され、10月の取締役会では、石黒工務監の査定を得た次の案が選択された。「船渠及ビ護岸ヲ完成シ、附属工場ヲ移転シ、五千トン以下ノ船艦ヲ修理ニ必要ナル諸機械ノ設備ヲナシ営業スルモノ、今後支出スベキ経費不足額約四五万円」。しかし、この資金調達は難航し、結局安田銀行より、船渠完成を条件として、会社の動産、不動産担保、金利年1割、37年12月末返済とする60万円の借入が12月に実行された。かくて、さきに木柵に変更した船渠上半部をブロックに復すること、工場敷地狭隘でさらに埋立をすることが決議され、ともかく、35年末には多少の設計変更をして、1万トンの船艦が入渠可能の船渠が大体において落成したのである。
なお、35年、上、下期ともに、工事費予算不足を理由とする役員の引責辞任の申出があったが、株主の希望により重任している。
35年末には、帳簿の振替整理があり、修船台の勘定科目が設定されるが、この金額と工事仮出金を合計すると既に100万円をこえる。有形固定資産額の合計は、払込が完了した120万円の資本金を上回る額となった。