明治35年には、サガレン南部、および沿海州西南区の日本人漁業は、日本側の交渉の結果、従来通りの出漁が認められたが、沿海州北区に対する規制は踏襲されることになり、同年になって、漁区の貸下げが競売によって行われるようになった。
すなわち、従来、ロシア当局が借区を認めた漁区表には地域のみが表示され、借区料は一律に200ルーブルとされていたが、この年から、漁場区域を特定し、競売により借区者と借区料を決めることとした。そして、借区者と漁夫は、これまでと同じくロシア人のみに限られたが、漁撈、加工の技術者、職工などについては、外国人の使用を認められることになった。だが、これ以後においても、日本側の漁業者は、それまでと同様、ロシア人漁場主と契約を結び、船員名儀の漁夫によってカムチャツカへの出漁を続け、かえって前年を上回る成績を上げたという。
翌36年には、外国人の入漁禁止の方針は依然として維持されたが、従来禁漁区域であったカムチャツカ半島東海岸オリュートル岬以北のベーリング海沿岸、および半島西海岸ボートカギールナヤ河よりアヤン港までのオホーツク海沿岸が解除され、これによって極東露領沿岸地帯は総て漁業に開放されたのである。しかし、同年これら地域への出漁者はなかったようである。
この年の我が国の出漁船は前年より3隻多い67隻になったが、海難、ロシア海軍の拿捕などにより生産量は2万4000石程度に止まった。
以上日露戦争以前の露領漁業の沿革について述べたが、この間自由出漁(密漁)に始まり、ロシア側の規制と監視が強められる中で、契約出漁に至る幾多の変遷を遂げつつ、明治40年代以後のカムチャツカを中心とするわが露領漁業の基礎が創りあげられたのである。