サルトフの採用

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 「学制」の制定や教師陣の問題などがあったためか、ロシア語科が開設されたのは認可を得てから8か月後の5年10月だったが、明治の初期、開拓の緒についたばかりの北海道の地で、地元で官吏(通訳)を養成するために、外国語それもロシア語の課程を開設するということは、中央にいる上局が考えているのとは違い、地元の函館支庁にとっては大変なことであったように思われる。たとえばせっかく来函した3名生徒(高木平三郎、本多銀二郎、山口五太郎)も、翌6年には、先生が不在で修業に支障があるので東京に出てロシア語を修業したい旨の願書を提出しており(「開公」5765)、また6年3月提出された前述の「函館学校改革案」でも、不振のロシア語科について函館支庁は「即今ノ体裁極て寥々寂々ニして何連更革釐正不致候はてハ将来の目途」が立たず、今後盛んにする考えがあるのなら「東京仮学校ニ於て別ニ一科を立て御更張相成候哉、或ハ札幌ニ於て御開の方ニも候哉」と東京仮学校か札幌で開設することを希望していたほどである。
 このロシア語科の改革案に対し、東京上局は「魯学教師トシテサルトフ氏御雇入其地エ被遣候条、従来貫属生徒ノ外人民モ漸次自費ヲ以テ就学候様勧請可致事、但給料其他ノ費用トモ第七条額金(定額金)ノ内ヲ以可相充事」(「開公」5756)として、6年6月には東京で採用したロシア人サルトフを教師として函館へ派遣してきた。政策上の必要からロシア語教育に着手した開拓使としては、地元の消極的な提案とは裏腹に、より積極的に当初の次官の構想である「学所取建」の方向へと動いていたようである。ちょうどこの時期は前年公布された「学制」に「外国語学ニ達スルヲ目的トスル」外国語学校が追加されており、まさにこの中学に準じた外国語学校としてのロシア語学校開校のためのサルトフの派遣だったのではないかとも思われる。
 採用されたサルトフは幕末に来函、ニコライのもとで聖堂の読経者兼鐘つきを勤め、ニコライが初めて日本人に洗礼を授けた時に、監視役として立ち会ったエピソードを伝える人物である(『日本正教伝道誌』)。「開拓使雇教師給料表」によると、6年6月15日から12か月間の契約で1か年2400円となっている(「開公」5742)。このサルトフの来函により、前述の本多らの出京願いは「今般魯学教師サルトフ御地学校ヘ御雇入相成候ニ付、向後教育方不行届ノ儀無之筈」なので、他への遊学はしないようにと見送られた(「開公」5756)。なお山口五郎太は同年6月にロシア語科の生徒を辞めている。