元町学校

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 一方富岡学校の英語・数学科を合併した松蔭学校は、サルトフ死後、後任の責任者が不在のままだったが、7年10月赴任してきた御用係嵯峨寿安を8年3月統括責任者とし、4月には病気のため1月退任した諸岡篤三の後任に小野寺魯一を任命、7月に来未甲蔵を、9月には大築尚正・田中清をそれぞれロシア語教員として採用した(明治7・8年「函館支庁日誌」道文蔵)。
 このころ会所学校に続き新たに公立小学校を開校したいという動きが起きた。この要望に対し函館支庁は、在籍40名ほどの生徒には広すぎる松蔭学校の校舎を公立小学校に提供することにし(明治8年「長官届原書」道文蔵)、8年11月27日、松蔭学校のロシア語・英語・数学の3科を元町の官舎へ移し、校名を元町学校と改称した(明治8年「函館支庁日誌」道文蔵)。同年末の元町学校の概況は、教員10人、生徒は37人だった(明治9年「函館支庁一覧表調原稿綴」)。
 その後元町学校は生徒が減少し、翌9年4月18日で廃校となった。廃校時の教員の内、嵯峨寿安をはじめ外国語担当の教官はすべて職を去り、数学担当だった鈴木重直だけが教員として会所学校へ移っている(図10-1参照)

図10-1 官立学校の教師

 函館学校から始まり「学制」に準拠した変則中学校あるいは外国語の専門学校へと発展した函館の初期の学校教育だったが、生徒の減少とまず小学校を普及しようとした文部省の方針の前に幕を閉じることになった。なお函館学校と同時期に開校した札幌の資生館は、7年に初等教育機関へ改組し、翌8年雨竜学校となった。また7年に各県に設置された官立(文部省直轄)英語学校も、西南戦争勃発による官費節減のため大半が廃校となり、官立の外国語学校は東京外国語学校のみとなった。