「学制」公布と開拓使

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 明治4(1871)年の廃藩置県の実施により統一した教育行政が実施できる体制となった明治政府は、この年教育行政の総括機関としての文部省を設置し本格的に教育行政へ着手した。まず5年6月「学制施行順序」を達し学制実施の順序として9項目を掲げ、第1に「一、厚ク力ヲ小学校ニ可用事」(『明治以降教育制度発達史』第1巻)と小学校の開校と普及に力を注ぐこととし、9月には、日本教育の理想案である「学制」を公布した。「学制」には「学制序文」「被仰出書」などとよばれる前文が添えられて全国府県へ頒布された。そこに示されている「学制」の基本理念の大要は、教育は「身を立るの財本」であり「必す邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と国民皆学を奨励、親に対しても「其子弟をして必す学に従事せしめ」と就学の義務を強調し、「従来沿襲の弊」である「学費及び其衣食の用に至る迄官に依頼」することを否定して教育費の民費負担の原則を明らかにしている。
 「学制」本文は追加を入れると全文で213章という雄大な構想を示すものだが、その主となるものは、教育行政区画としての学区制の採用であった。全国を8大学区(6年4月7大学区に改正)に分け、各大学区を32中学区、各中学区を210小学区に分け、中央に文部省、各大学区に督学局、各中学区に学区取締を置き、各大学区・中学区・小学区には各1校の大学校・中学校・小学校を設置することを定めている。これによって文部省-大学区-府県-中学区-小学区という教育行政の系統と(仲新・伊藤敏行編『日本近代教育小史』)、小学校-中学校-大学校という学校体系の基本が成立し、我が国の近代学校教育制度が発足したのである。
 こうして「学制」が全国に頒布され小学校の開校が奨励されたが、開拓が始まったばかりの開拓使は、6年12月「当使民政ニ於テハ専ラ其産業督励ヲ主トシ、未タ他府県同様学務施行ノ場合ニ至リ不申」とし、「現今悉其成規ヲ踏候テハ実地差支ノ廉不少…因テ管内教育ノ事ハ一般施行スヘキノ時ニ至」ったなら、文部省へ協議の上処分したいとして、「学制」施行に関する開拓使の特例を認可してもらった(明治7至同10年「学事関係書類」道文蔵、「開日」)。しかし函館については、「尤函館ニ中小学、其他有珠与(余)市二郡ヲ初各所ニ郷学ノ設有之、漸次学制ニ依循可致見込ニ候」と既存の学校もあるので徐々に「学制」に準拠していく旨を表していた。