「教育令」の公布と改正

1218 ~ 1219 / 1505ページ
 各地方の実情を無視した「学制」の画一的実施は、学資の負担に喘ぐ民衆の不信・不満を募らせ、明治12(1879)年9月「学制」は廃止され、教育の地方管理を基本とする「教育令」が公布された。「教育令」は「学制」に比べわずか47条からなる非常に簡単な規定で、学区を廃して小学校設置の基礎を町村に置き、公立小学校の設置や就学義務を緩和するなど教育の権限を大幅に地方に委ねた。この小学校設置運営に関する自由さから「自由教育令」と通称させれた「教育令」の実施は、児童の就学率の低下や学校の廃校など小学校教育を後退させる結果となり、わずか1年ほどで改正された。
 翌13年12月、「教育令」が改正、公布され、再び教育の中央集権化が図られた。この改正「教育令」は「教育令」の条文に修正・削除・追加を加え50条からなっており、主な改正点は、重要事項の文部卿や府知事県令の権限の強化のほか、公立小学校設置規定や3年間の就学義務の明確化、年間授業「四か月以上」から「三十二週以上」への増加、府知事県令の選任制による学務委員の選出、教員の任免権者としての府知事県令の指定などが追加され、小学校と公立師範学校に関する国の補助金に関する条文は削除された。改正「教育令」の施行にあたり、翌14年1月「小校設置ノ区域並校数指定方心得」や5月「小学校教則綱領」など関係規則が制定されたが、これらはあくまでも各府県で定める規則の基準を示したもので、その点では教育を地方の管理に委ねた「教育令」の基本的性格は受け継がれていた。
 開拓使も13年1月「小学校則・教則」を定め、函館支庁はそれに依拠して同年3月「小学校規則および教則」を制定した。支庁の教則によると満6歳より14歳を対象に、課程を6級に分け、1級2期、1期6か月の修業とし、各期卒業の者は定期試験を経て昇級し、全科卒業の者は3か月の温習の後、大試験を経て修了となる。教科は修身・養生・問答・暗記・書取・作文・博物書・体操でその他各校適宜に農業養蚕などの実科も設けた。以上が正則で、ほかに4年で卒業できる変則小学教則も定められた。当時函館で存立していた公立小学校は宝・住吉の2校のみで、ともに正則実施学校に指定された(『布類』)。