「小学校令」と北海道

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 政府は明治18(1885)年12月内閣制度を創設、初代文部大臣に就任した森有礼は、教育は国家の繁栄のためになすものであるという独自の教育観をもとに教育政策を実施、各学校別の学校令を公布して、小学校→中学校→帝国大学を学校体系の基本とし、教員養成のための師範学校を別系統に位置付けた。その後数十年にわたって整備拡充されていった国家中心の教育を目的とした学校制度の基礎が、この諸学校令の公布によって確立したのである。
 19年4月、全文で16条からなる「小学校令」が公布され、続いて「小学校ノ学科及其程度」が制定されて、小学校の設置・運営に関する基本事項や小学校教育の内容に関する基準が示された。「小学校令」では、小学校を修業年限各4年の尋常小学校と高等小学校とに分け、尋常小学校4か年の修学義務を明確に規定した。また土地の事情によっては、尋常小学校の代用として「小学校簡易科」の設置も認めて地方財政の窮乏に対処し、教科書については「文部大臣ノ検定シタモノニ限」るとはじめて検定制度を実現、翌5月には「教科用図書検定条例」を定めた。
 「小学校令」の公布と前後して19年2月、北海道は3県1局分治の形から北海道庁の一括統治へと行政機構が大きく変化し、その変化は教育の面においても大きな変化をもたらした。前年の金子堅太郎の「北海道三県巡視復命書」(『新撰北海道史』史料2)における「内地同一ノ学制ニ倣ヒ、其虚式ヲノミ施行シテ北海ノ実用ニ適セザルガ如シ」という北海道教育への批判を踏まえ、初代長官の岩村通俊は、二十年五月、全道郡区長会議での施政方針演説の中で、教育問題への批判を踏まえ、初代長官の岩村通俊は、20年5月、全道郡区長会議での施政方針演説の中で、「小学教育ノ事モ、植民地ニ相当ナル程度ヲ以テ、施行スベシ。(中略)抑、新開ノ植民地ニ在テハ、人民ハ其全力ヲ、殖産興業ニ尽サザル可ラズ。官府モ亦、之ヲ保護シ、努メテ民力ヲ培養シ早ク其独立ヲ期セザルベカラズ。故ニ、教育ノ事ノ如キハ、率ネ簡易、卑近ナルモノニ止メ、其教科ハ農夫、漁民ニ適切ナルモノヲ撰ビ、其授業時間ハ、之ヲ短縮シテ午前若クハ午後ニ於テ二、三時間以内トシ、或ハ土地ノ景況ニ依リテハ、冬期ノミノ学校ト為シ、其休暇ノ如キモ、漁民ハ、漁業ノ期節、農民ハ収穫ノ期節等、各其生業繁忙ノ時ニ於テスル等、成ルベク自家生業ノ助ケヲ為サシメンコトヲ是レ計ルベシ。(以下略)」(「岩村長官施政方針演説書」『新撰北海道史』史料2)と、「植民地」に適した「簡易卑近ナル」教育を奨励し、「自家生業ノ助ケ」になるようにとその方針を述べた。この長官の方針は、20年4月7日庁令第16号「小学校規則及小学簡易科教則」として全道に布達され、「植民地」に適した「簡易卑近ナル」教育と「簡易科学校」の実現が奨励されたのである。
 また教育課程の変更に伴い、同日付けの庁令第17号で町村立小学校の等級が定められ、高等・尋常科の併設小学校を全道に3校(札幌・函館・松前各1校)、尋常科の小学校を7校とし、これら10校以外の既存の小学校はすべて簡易科の課程とした。当時全道の公立尋常小学校は約260校(『北海道教育史』総括編)なので、約95パーセント以上が簡易科となったことになる。この大幅な簡易科小学校の設置は教育に関する地方費からの補助金廃止に備え、学校経費の半減もしくは3分の1への節減を図ったものである(明治19年「学校設置廃合書類」道文蔵)。
 なお北海道庁設立直後の教育政策における実学教育への志向は、必ずしも金子-岩村の政策の中で初めて出現したものというわけでもない。この点について少々触れておこう。例えば3県時代の末、18年2月、函館県令時任為基は管内の郡区役所・戸長役場・学務委員・公私立小学校あてに小学生徒の教養に関する諭達を出し、この諭達の主旨を徹底するために6か条の告諭をおこなっている(「諸規則創定改正書類」『函館県(教育)』北大蔵)。この県令の諭達・告諭の根底にあるものは、「開拓草創の地」である北海道の普通教育における「実学」「生業」の振興思想の養成であった。
 したがって、道庁設置にともなう北海道の教育改革は、道内におけるそうした方向性を基盤としつつ、金子によって道政改革の中に組み込まれ、岩村によって実現されたということができると思われる。なおこの諭達・告諭の全文は『函館教育協会雑誌』(28~30号、30号は所在未確認)にも掲載されており、恐らく当時の函館の教育関係者の間では、この実学教育志向への教育改革は予知できたことであったと思われる。