御真影への学校への下付は7年の文部省直轄学校から始まり、府県立学校、そして21年には巡幸の際行在所となった3公立高等小学校へと下付されたが、これら府県立学校や町村立学校への下付請願は府県知事から直接宮内省へ行なうのが一般的で、文部省は関与できない状態にあった。しかし22年12月文部省総務局長名で「自今高等小学校ヘモ申立ニ依リ下付可相成筈ニ有之候、就テハ右拝戴方申立相成候ニハ、先以後来維持ノ目的モ確立シ且他ノ模範トモナルヘキ優等ノ学校ヲ撰ミ、当省ヲ経テ申立相成可然候」という通達が出され、以後文部省経由で一元化され、高等小学校へも下付されることとなったが、「拝戴」をする学校には「後来維持ノ目的モ確立シ且他ノ模範トモナルヘキ優等」の学校を選ぶことが条件付けられた。つまり御真影が下付された学校は、行政側(道庁府県)にとっては、ある程度完成した学校として認識された学校であったということができるのである。
では北海道への御真影の下付状況はどうだったのだろうか。前述の論文中に府県別の下付状況(表10-9参照)が掲載されているが、これをみると23年の10校にはじまり25年までの3年間に26校へ下付されている。同時期の『北海道庁学事年報』によると、管内の公立高等小学校は23年が12校、以下24年17校、25年25校となっており前掲の表10-9とは学校数が異なるが、しかし大半の高等小学校には下付されていたことはわかる。
表10-9 高等小学校への御真影下付状況
21年 | 22 | 23 | 24 | 25 | 合計 | 高小数 | 下付率 | |
北 海 道 (函館) | 10 3 | 4 | 12 | 26 3 | 37 3 | 70.3 100.0 | ||
全 国 | 1 | 27 | 636 | 114 | 227 | 1,005 | 2,220 | 45.2 |
「明治期学校への「御真影」下付政策に関する一考察」掲載表より作成
函館では23年7月22日から24日にかけ弥生小学校・宝小学校・函館女学校と全ての公立小学校へ下付された。この下付状況を当時の「函館新聞」は「聖影奉戴式」と題して次のように伝えている。
弥生小学校にては今回聖影を下賜されたるに依り、昨日午前九時より同校生徒百五十名余列を作り先に弥生小学校と聖影奉戴と大書したる二疏の旗を立て木銃を担ひしものもありて、教員付添整々として富岡町を過き基坂を上りて区役所に至り、教員工藤氏聖影を区長より奉授せられ、再ひ基坂を下りて帰校せり、校門に於ては男女の生徒奉迎し、女生徒は唱歌を男生徒は軍歌を奏せり、式場にはタンベルに作りたる物に聖寿万歳と菊章を爽んに掲け、来賓を招待し、生徒の君か代の合奏ありて、校長祝辞を述べ次に来賓なる豊川校主五十嵐氏の祝辞あり、生徒も祝辞を述べ終って酒菓を饗せり、来賓は当区長教育係各学校々主の諸氏にして全く散会せるは午前十一時なり (七月二十三日付「函新」) |
25年以降は高等科と尋常科を併設する小学校が増えたため、これら併設校へも御真影は下付されていった。函館では30年代に入り公立小学校が増加したが、これらの学校への下付状況は表10-10のとおりである。逆に編成替えにより尋常科単独校となった小学校は御真影を奉還している。なお27年1月道庁訓令第1号「御影並勅語ノ謄本奉衛等ニ関スル規程」が制定され、これによって御真影を守るために宿直員を置くことが規定された。
表10-10 明治30年代各公立小学校への御真影下付状況
幸尋常高等小学校 | 東川尋常高等小学校 |
明治30.9.24 幸尋常高等小学校開校 30.10.20 教育勅語謄本下付 31.12.16 御真影下付 34.4. 幸尋常小学校に改編に より御真影を奉還 | 明治31.4.3 東川尋常高等小学校 開校 31.4.11 教育勅語謄本下付 31.12.5 御真影下付 |
亀田尋常高等小学校 | 若松尋常高等小学校 |
明治25.4. 高等科併設 25.5.18 御真影および教育勅語 謄本下付 32.10.1 函館区へ編入、亀田尋常 高等小学校と改称 37.4.1 編成変更により亀田尋常 小学校となる 37.6.29 編成変更により御真影を 道庁へ奉還 | 明治36.9.1 若松尋常高等小学校 開校 36.8.8 教育勅語謄本下付 37.1.11 御真影下付 |
河野文書「函館区史編纂史料(三)」(北大図書館北方資料室蔵)より作成