授業料の変遷

1245 ~ 1246 / 1505ページ
 受益者負担の原則に立つ「学制」では、学校経費は授業料で賄うことを主とし授業料の標準を50銭とした。しかし各地方の状況によりさらに低額も認めたため、実際徴収された授業料はかなりの低額で、また徴収しない地方もあったという。
 函館では8年に開校した会所学校が月額12銭5厘を徴収し、公立小学校もそれにならった。その後開拓使は、12年2月「授業料収入規則」を制定し授業料を戸主の家産の貧富に応じ、上等50銭・中等25銭・下等12銭5厘の3等に分けたが、函館の公立小学校は等差を設けずに12銭5厘で統一していた。開拓使時代は「創草ニ際シ専ラ誘導ヲ要スル」時で低額だった(明治14、5年「区会議事録」)授業料は、函館県時代の15年9月から月額25銭へ、さらに17年には30銭へと増額された。「貧民学校」や「学資給与規則」などの対応処置もある(明治16、7年「区会議事録」)ということでの増額だったが、前後の就学率を見てみると、15年度44.6、16年度41.4、17年度40.3、18年度40.2(『函館市史』統計史料編)となっており、授業料の増額が学事の後退へ何らかの影響を与えていたことは明らかである。
 経済不況による地方財政の窮乏は自然教育費を圧迫したため、文部省は19年公布の「小学校令」で、地方庁に額の設定を任せた。北海道庁は翌20年4月「町村立小学校生徒授業料金額及其徴収規定」を制定、授業料を父母後見人の資産に応じて区戸長が指定することとし、その基準額を高等科30銭~1円、尋常科20銭~50銭とした。函館では区民の資産などに関する既存調査が無く資産に応じた授業料指定ができない(明治20・21年「区会議事録」)ということで、とりあえず父母後見人の選択に任せることにして、尋常科に1等40銭・2等35銭・3等30銭、高等科に1等60銭・2等50銭・3等40銭の格差を設定した(明治20年「区会」)。区の見込みでは、7割が3等に該当するだろうという見通しだったが、実際は1、2等の高額の授業料を納める者が多く決算は増額となっている。
 28年から第2次「小学校令」を実施した道庁は、早速「区町村立小学校授業料規則」を制定、従来の授業料の格差を排除し、尋常科は20銭以下・高等科は1円以下の範囲内で額を定め長官の認可を得ることした。函館区はとりあえず28年4月から尋常科のみ一律月額20銭へと減額し(明治28年「臨時区会議事筆記」)、高等科の授業料は30年4月から一律50銭とした(「北海道教育週報」明治30年3月5日付『北毎』付録)。
 さらに33年の第3次「小学校令」は授業料を廃止(34年度以降3か年をかけ37年度に全廃)し義務教育の無償制を確立したが、函館では、授業廃止は多数ある私立小学校の存廃につながるとして特別認可を得、36年度まで尋常小学校は月額20銭、高等小学校は月額60銭の授業料徴収を継続し、37年度からは全国にならい尋常小学校の授業料を廃止した(明治36年「区会書類」)。しかし、現実問題として、尋常小学校の教育設備の整備・完備のために36年度以降数万円の臨時支出を行なって学校の改築・修繕事業を起こしていた函館区にとっては、金額的には少ないとはいえ教育費の唯一の収入となっていた授業料収入の減額は、区の教育行政にとって大きな痛手となった。そこで37年に月額70銭に増額した義務教育外である高等小学校の授業料を文部省の特別認可を得て、さらに38年度から41年度までの3か年間月額80銭に増額した(明治37年「函館区会会議録」)。
 なお授業料は月ごとの納入で、出席数が半月を割るときは半額、また全月欠席の場合は授業料を納めなくて良いことになっていた。当然授業料の納められない家庭の子は欠席数が増え、児童の欠席数が増えることは授業料の減額収入へとつながった訳で、30年代の決算書の減額理由には「全月欠席児童多数」というのが並んでいる。就学はするが、通学する子は少なかったようである。