明治15(1882)年12月文部省は学事諮問会で簡易幼稚園の普及を奨励した(『学制百年史』)。文部省はすでに9年11月東京女子師範学校内に付属幼稚園を開園しており、これを我が国における幼稚園のモデルにしようとしていたが、文部省式の幼稚園では規模が大き過ぎ内容も高度で対象が一部の人々に限られるため、各地へは簡易幼稚園の開園が奨励されたのである。こうして10年代後半には全国に国・公・私立合わせて30の幼稚園が開設された。なおこの幼稚園の名称だが、5年の学制では「幼稚小学」という名称で小学校の1種類とみなしていたが、12年の教育令からは「幼稚園」として学校とは区別して文部省の監督下に置いた。
函館には4年開設の育児会社や9年函館にやってきた聖パウロ会の3人の修道女がはじめた孤児院など就学前の幼児を養育する施設はあったが、幼児教育を行う施設はなかった。改正「教育令」を実施した函館県は文部省の奨励もあり、16年11月1日函館師範学校附属小学校の中に仮設の幼稚園を開園し、就学前の子ども25名を収容した(『函館師範学校第一年報』)。とりあえず小学校在籍の学齢未満児(17年度からこの学齢未満児の小学校在籍は認められなくなった)を1教室に集め指導したものと思われるが、詳細はわからない。
この仮幼稚園の運営や子どもの保育指導の中心になったのが函館師範学校教員の桜井ちかと武藤八千だったと思われる。桜井ちかは東京に桜井女学校を開校、次いで小学校や幼稚園を開設したキリスト教主義による女子教育や幼児教育の先駆者である。夫桜井昭悳牧師の函館赴任に際し、東京で開拓使に採用(月奉20円)され、14年7月函館へ来た。また武藤八千は、東京女子師範学校に付設開設した保母練習科を11年に卒業(山崎長吉『北海道教育史』)、同じく東京で採用(月奉15円)され、16年3月に函館に来ている。おそらく幼稚園開園にあたり保母の養成を受けた人物が必要とされての採用だったのだろう。武藤と同時に卒業した保母練習科のほかの10名もそれぞれ各地に派遣され幼児教育の中心となったということである。桜井は翌17年7月師範学校の職を辞しており、その後の幼児教育は武藤が中心になっておこなったものと思われる。
この仮幼稚園は、20年4月の附属小学校の廃校とともに廃園になった。