初期の中等教育

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 明治5(1872)年の「学制」は学校を大学・中学・小学の3等に分け、「小学ヲ経タル生徒ニ普通ノ学科ヲ教ル所」を中学として上下2等(14歳より各3年)に分け、中学の「書器」がまだ完備していない中学を変則中学とした。旧藩校や洋学塾・漢学塾を母体に開校された公・私立中学校は大半がこの変則中学校だった。「学制」では中等教育の総称的意味を含んでいた中学校だったが、「教育令」および改正「教育令」で農学校・商業学校・職工学校などの名称が具体的に掲げられたことによって、中学校は普通教育を授ける学校としてその目的・性格が位置付けされ、さらに14年の「中学校教則大綱」で「中人以上ノ業務ニ就クカ為メ、又ハ高等ノ学校ニ入ルカ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノ」と制度上での性格が明らかにされた。さらに17年には「中学校通則」が制定されより具体的に設置基準などが示された。
 この時期函館で中学校に該当する学校は開拓使立(官立)および函館県立(公立)の行政機関によるものが主だった。すでに第1節で触れているが、まず官吏の子弟教育のために始まった函館学校、全国的に盛んになった外国語学校の開校と前後して開校されたロシア語学校、「学制」に基づき函館学校を変更、開校した変則中学校、そして専門学校の医学所(第11章参照)など、当時中央で文部省が試みていた中等教育や専門教育がそのまま開拓まもない北海道でも試みられていたのである。幕末開港以来の基礎と開拓使の中央庁としての位置付けからこれらの試みを函館で実施したことはうなずけるところではあるが、やはり開拓が始まったばかりの北海道では、一般に受け入れられ普及するものではなかった。いずれも10年以前に廃校あるいは中断となっている。文部省の方針がまず初等教育そして教員養成に力が入れられたことがこれらの学校の廃校を速いものにしたが、北海道ではそれらに対応できる人材がまだ育てられていなかったことも一因だったと思われる。また生徒を指導できる人材も少なかった。実際ロシア語学校や医学所などは中心となる人物がいなくなると同時に学校も衰退している。つまり地元での早急な需用も、また供給される人材もいないために開拓使初期の中等教育はわずか数年で大半が幕を閉じたのである。結局開拓使から函館県へ引き継がれたのは、必要に迫られていた教員養成のための師範学校(同章第4節参照)と13年復活した医師養成のための医学所のみであった。なお函館県時代に入ってから私立を引き継ぎ海員養成のための県立の商船学校(同節3参照)も開校しているが、以上はすべて専門的な学術・技芸を教える学校であり、普通中等教育を教える機関ではなかった。