「中学校令」と北海道

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 明治19年、初代文部大臣の森有礼は諸学校令を制定し、小学校→中学校→帝国大学という学校体系の基礎を築き、近代学校制度の骨格をつくった。特に中等教育については、「中学校令」を制定、中学校を(1)実業につくためと、(2)高等の学校に入るためとの2つの目的をもつものとし、全国に5校の文部省直轄の高等中学校と、各府県1校の各府県立尋常中学校との2段階の別な性格をもつ中学校に役割分類した。つまり実質的には小学校→尋常中学校→高等中学校→帝国大学の学校体系が成立したのである。
 尋常中学校については同年「尋常中学校ノ学科及其程度」を制定、修業年限(5年)・入学資格(12歳以上で中学予備の小学校またその他の学校で相当の学力を得た者)・学科・授業数などを規定、初等教育6年に接続する学校とした。高等中学校は「高等中学校ノ学科及其程度」が制定され、帝国大学の予備段階で、修業年限2年、入学資格は尋常中学校卒業などと規定された。中学校はまさに国家に有用な人材を育成する選ばれた者の普通教育の中等教育機関としてその位置付けがなされたのである。
 19年に北海道庁が開設された北海道は、この時期教育の振興が停滞した時期だった。3県時代の教育の高尚化を反省した初代長官岩村の「簡易・実用」の教育方針によって、初等教育でさえ学校の設置・開校が押さえられている状態で、高等な中学校の開校・普及などは望むこともできない状態だった。この時期の道庁管轄の中等教育機関は、19年函館・札幌両校を廃して札幌に1校開設された北海道(尋常)師範学校と函館県より引き継いだ函館商船学校の2校の専門学校があっただけで、普通教育における中等教育機関は全くないというのが実情だった。