渡辺長官就任後の北海道庁の教育方針は振興政策へと変更、全道的に高等小学校が拡充された。この教育方針の変更による教育の高尚化は、自然中等教育整備拡充の要望を生み出した。全国的そして全道的な中等教育確立の動きの中で、商業学校が開校している函館でも普通中学校開校の要望があがっていた。
当時の新聞には、「尋常中学校ノ創設ヲ渇望ス」(21年9月27日付「函新」)、「尋常中学校の設立を望む」(22年11月8日付「北海」)、「中学校を設立すべし」(23年3月22日「北海」)という投書や社説などが掲載され、ともに商業学校・商船学校は専門に属するもので普通教育の中学校を早急に開校して欲しいと訴えている。また函館区も、「小学校以上稍高等ノ学校ハ商業及商船ノ両専門校アルノミニシテ、小学校卒業ノ者普通中学ヲ修メント欲スルモ他道各府県下ニ出港スルニ非ラサレハ希望ヲ果ス能ハス、止ムヲ得ス前二校ニ依リ就学スルモノアリ、然ルニ今後小学校ハ陸続卒業生ヲ出スヘキモ、該両校ニ於テ之ヲ就学セシムルコト能ハス、否各自ノ希望外ナルカ故ニ尋常中学校ノ必要日一日ニ切迫セリ」(明治23年「演説書」道図蔵)と、早急な尋常中学校の開設の必要を認めていた。
小学校が整備されて、区内の公・私立小学校の高等科在校生数(男子のみ)が、21年で262人、23年で406人、25年654人と(『函館市史』統計史料編)確実に増加してきていた函館としては、当然の要望であった。その内何割の卒業生が進学を希望したか史料がなく定かではないが、高等科在学生の大半が教育環境や保護者の生活状態が安定している弥生および宝小学校の生徒であり、中学校が中流階級を対象とした教育機関であることをなどを考慮すると、区内に普通中学校があるという条件さえ整えばかなりの進学希望者がいたものと思われる。