日清戦争によって産業界にもたらされた著しい躍進は、近代産業と密接に結び付いた学校制度の方策を実業教育へ傾注させることとなった。実業教育の振興こそ国家富強のもとであるとする当時の文部大臣井上毅は、実業補習学校規程・徒弟学校規程・簡易農業学校規程や実業教育費国庫補助法などを規定、実業教育は急速に発展した。加えて30年前後の産業界の発展は、実業従事者に組織的な学校で養成され各種の技能を身に付けることを要求、中等以上の実業学校の整備が強く要望された。
このような社会的な要望により30年代の学校制度全般に関する改革の中で、32年2月「実業学校令」が公布され、統一された規定のなかった実業学校の制度化が行なわれた。「実業学校令」は基本的な規定をしただけで具体的には各学校規程で規程されたが、修業年限は3年、入学資格は14歳以上で修業年限4年の高等小学校卒業程度の学力を有する者となっており、中学校を終わる年齢と実業学校を終わる年齢は一致した。
実業学校が中等教育機関として漸次充実していくことは、普通教育と実業教育の二面性をもっていた尋常中学校の性格を普通教育へと統一することとなり、「実業学校令」とともに32年2月「中学校令」が新たに制定され尋常中学校の性格がより明確なものとなった。「中学校令」では中学校の目的を「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」と、男子のための高等普通教育を教える場と統一し、北海道や各府県に1校以上の開校を義務付けた。なお27年の「高等学校令」によってすでに中学校の上段階にあった高等中学校が分離して高等学校となっていたため、この「中学校令」施行の日(32年4月1日)より従来の尋常中学校はすべて″中学校″と改称された。また中学校の目的が普通教育に統一されたため、従来中学校に併設されていた農業・工業・商業の専修科は廃止された。34年3月の「中学校令施行規則」の制定により学科・教授日数・編成・設置および廃止などが規程されて中学校関係の規則がほぼ総括・整理された。