この女子部を函館に残したのには、函館県令時任為基の函館における女子教育の必要を説く強い意向があったことが、20年1月の「函館支庁事務引継演説書原稿一」(北大蔵)の中に記されている。この演説書で、時任は女子教育について触れ、「元来函館地方ハ女子ニシテ裁縫筆算等ヲ心懸ルモノ甚タ少キノミナラス、女子教育ノ方無之ヨリ、其風俗甚タ怠惰ニシテ女徳ニ関係スルモノ少カラス」。そこで先に「函館師範学校ヲ置キ女生徒ヲ教育シ風俗ノ改良ヲ奨励」したところ「漸次ニ其陋習ヲ洗脱シ、数年前函館地方女子ノ風俗ニ比フレハ其豹変アルヲ覚フ…教化ノ功、与カリテ力アルト信シテ疑ハサル所ナリ」。それゆえ「曩ニ師範学校ヲ廃セラルヽニ臨ミ、殊ニ経費ヲ請求シテ女子師範生徒ヲ依然存在セン事ヲ稟申」したのであり、さらに進んで「一般女子ノ教育ヲ普及セント欲スル」からでもある。もし師範学校の廃止に合わせ女子も廃止する時はすべてを処分しなければならず、一旦処分した後に再び良案を設けて開設するには「縁故既ニ絶ヘ」復興は容易なことではない。それで後日徐々にこれを改良し、より良い女学校開校のためのつなぎとして、今日女子部を残すことを企画したというのである。
そして女学校開校案として、(1)東京女子職業学校の教則にならい師範学校でも中小学校でもない「一種ノ女学校」に改め、(2)入学生徒は小学尋常科卒業以上の学力ある者を適宜に入校させ、(3)卒業生はその才能によっては小学尋常科または小学簡易科の教員、授業生になっても差し支えなく、(4)教則は本道の事情に合わせ「成可簡易ナルモノ」とする事など5か条を掲げている。そして最後に「若シ道庁意ヲ此ニ用ヒラレス従来設置シアル所ノ女子学校ヲ廃シナハ、本道女子教育ノ道ハ一切断絶セン、果シテ然ラハ民心ノ向背父兄ノ感想如何可有之ヤ」として函館分校が廃止となった時には、前述案により女学校を創設することを強く要望した。
県立函館女学校を中心とする県時代の女子中等教育は、彼のこのような女子教育観によるものであり、そして彼の教育観を支える「縁故者」が、師範学校の教員たちだったのである。