教員養成への動き

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 小学校の開設を地方行政の基本事項とする明治政府の方針と文部省の権限に基づき、明治5(1872)年、東京に教員養成のための専門学校である東京師範学校が開校、アメリカ人スコットが教師に迎えられた。アメリカ式の小学授業法「一斉教授法」をアメリカの教材を使って実際に行なうことによって、生徒に授業方法を伝授しながら教育方法を確立していくのが目的で、各地に開設された師範学校のモデル校となった。ここの卒業生は全国各地に散り、自らが修得した授業方法などの新しい知識をその土地の生徒(教員候補生)へ伝授するのが役目で、この役を担って函館に赴任したのが東京師範学校第1回卒業生の城谷成器だった(第1節参照)。
 城谷を得た函館支庁は、8年に初めての小学校会所学校を開校したが、この小学校の開校に合わせ、同年3月、長官あてに「小学教科伝習所ヲ設ル儀ニ付伺」(明治8年「長官伺指令録」道文蔵)を提出した。この「伺」で函館支庁は、おいおい小学校が各地に開校するようになると「必定教師ニ差支」るので、今回小学校を開校する函館と福山(同年10月開校)の小学校内に「小学教科伝習所」を開設、官費・自費の生徒をはじめ、手習師などを対象に小学教科を修業させ、「土地ノ者」をもって教師に充てたいとした。この「伺」は聞き届けられ、早速8年7月には「小学教科伝習所就学心得」が布達され、官費生5名と自費生若干名の募集が行なわれた。
 こうして「学制」では「数年ノ後ヲ得テ之ヲ行フヘシ」とした教員養成機関の開設が、函館ではまず″伝習所″という形で小学校の開校と並列して実現されたのである。なお函館支庁への伝習所開設許可と同時に札幌本庁へは適宜人選の上で生徒を派遣するようにとの申達が出されており(「開公」5815)、函館の伝習所が支庁管内にとどまらず開拓使全体の教員養成を目的とした機関であったことがわかる。
 前述の就学心得によって伝習所の内容をみると、生徒は開拓使から月5円が給与される官費生5名と自費生で、ともに卒業後官費生は5年、自費生には2年半の管内奉職が義務付けられていた。官費生は開拓使在籍の18歳~30歳の中から試験の上で選択され、自費生は18歳以上で多少の筆・算・読本などの心得がある者なら本籍寄留を問わず入学が許された。また手習師に対しては「成丈ケ伝習所ニ就学」し、徐々に正則の小学教科の授業へ移行するように指導された。