開拓使立函館師範学校

1279 ~ 1281 / 1505ページ
 明治12(1879)年9月「教育令」が公布され、師範学校については「各府県ニ於テハ便宜ニ随ヒテ公立師範学校ヲ設置スベシ」と各地方庁に公立師範学校の開校が一任された。すでに暫定的なものとして函館に伝習所を開設していた開拓使は、女子教育の奨励による女子教員の必要性から、13年8月に開所以来在校生ゼロだった女子の伝習生を新たに募集し、10名の官費生を入所させたのを機に、13年10月20日、「(略)明治八年小学教科伝習所開設、爾後追々、拡張教員モ重ニ文部省師範学校卒業ノ者ヲ相用全ク府県師範学校ト異ル所無之ニ付、今般右伝習所ノ称ヲ廃シ更ニ本月一日ヨリ函館師範学校ト改称」したいという上申書を太政大臣あてに提出した(「太政官公文録」国立公文書館蔵)。こうして開拓使の伝習所は各府県の公立師範学校と同レベルの師範学校へと改組され、校名も13年10月1日より「函館師範学校」と改称したのである。
 翌11月8日には「函館師範学校規則」(『布類』)が布達された。この規則によると、生徒は官費・町村費・私費生に分けられ、16歳~35歳の中から試験(国史・漢史・翻訳書・算術・作文)で選抜された。選抜後はまず試験生として仮入学し、成績や行動などが調査された後に本入学が許された。伝習所時代と比較すると退学者を減少し生徒の質を向上させる方向に向かったのである。官費生には伝習所時代同様月額5円の給付があったが、奉職義務は3か年と短縮された。師範学科は18科を2か年4期(1期6か月)で修得した。伝習所時代の6か月に比較するとかなりの延期である。学年は9月始業7月終業で、第1期(9月1日~2月15日)から第2期(2月19日~7月末日)へ進級する時に定期試験、第1学年から第2学年へ進級する時に大試験が行なわれた。また校名の改称と同時に、師範学校専任の教師を″教諭″と改称し、教諭陣の体制も整えた。教諭の構成は表10-19のとおりである。
 表10-20は小学教科生徒数の推移である。函館師範学校と改称後の14年には、一挙に59人の入学者を得、さらに12、13年とゼロだった全科卒業生も21名送りだすことができた。しかしこれではとても教員の必要数を満たすことはできなかった。当時管内では小学校の新設が続き年々100名を下らない教員を必要としていたのである(明治14年「取裁録」道文蔵)。そこで官費生を増員し毎年40名の卒業生を送り出すようにするなど(同前)、教育の将来を左右する教員の質と数の確保への努力が続けられたのである。
 
 表10-19 明治13年函館師範学校教諭陣
等級
月奉
 円
氏名
前歴
監督
2等教諭
3等教諭
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
4等教諭
 〃
 〃
25
25
23
23
23
20
20
20
15
15
15
村岡素一郎
素木岫雲
尾古謙蔵
前田憲
岡本利平
青野伊諧
吉田元利
杉沢吉太郎
鈴木重直
大庭俊太郎
井上小四郎
東京師範卒
同上
同上
同上
 
東京師範卒
 
 
 
東京師範卒

 『函館師範学校第一年報』より作成
 
 表10-20 小学教科生徒数推移
入学
者数
退学
者数
卒業
者数
在校
者数
明治 9
10
11
12
13
14
15
16
17
42
0
0
25
11
59
20
50
16
14
7
0
2
3
13
8
7
6
2
11
8
0
0
21
0
22
13
26
8
0
23
31
56
68
89
86

 『函館師範学校第一年報』より作成