初代文部大臣に就任した森有礼は、19年4月諸学校令を公布し、自らの国民教育論の構想を具体化したが、中でも普通教育における教員の重要性については特に注目しており、18年文部省御用掛時代に埼玉県の師範学校で行なった演説では「師範学校にして其生徒を教養し完全なる結果を得ば、普通教育の事業は已に十分の九を了したりと云ふを得べし」(『学制百年史』)と述べたほどである。この森の師範教育の理想を具体的に制度上に表したのが、19年4月に公布された「師範学校令」だった。この学校令では、まず人物養成に力を注ぎ「順良」「信愛」「威重」の3気質を教員養成の目標として掲げ、この気質養成の手段として教育課程の中に兵式体操を取り入れた。さらに師範学校を高等師範と尋常師範に分け、文部大臣の管理に属する高等師範は東京に1校、従来その数に制限のなかった地方の師範学校(尋常師範)を1府県1校に限定した。校長および教員の任期については5年を1期とし、尋常師範学校長にはその府県の学務課長の兼任も認め管内教育の統一をめざした。また生徒在学中の学資は完全支給制とし、その見返りとして全員に卒業後の服務義務を負わせた。こうして以後″師範型″といわれる教員が形成されていくことになった。
この「師範学校令」が北海道ではどのように実施されていったのだろうか。19年1月、北海道は3県が廃され北海道庁の一轄統治の型となり札幌に本庁が置かれた。この年4月2日、「師範学校令」の公布に先立ち、文部省視学官中川元は岩村長官あて書簡を送り、北海道の教育について「北海道ノ如キハ内地ト異ナル実況ニ有之候得ハ、右一定ノ制規ニ依リ律セラレ難キ事情モ可有之ニ付、別ニ実地適応ノ御計画相成リ候方可然」と北海道にあった教育を奨励するとともに、師範学校については「貴管下ニハ現今従前県立ノ師範学校二ヶ所ニ有之候得共、右ハ合併一校トナシ諸般ノ設備完全ヲ期セラレ候」と、統合してより充実した師範学校にするようにと提案、その見込みを提出して欲しいと連絡してきた(「師範学校書類」『函館県(教育)』北大蔵)。こうして函館と札幌にあった師範学校の統合の動きが始まったのである。