「師範学校令」に基づく文部省の内意、経済面、管理面から考えて函館側でも統合自体には異論は無かったとは思われるが、統合は実にあっさりと長官が直轄できる札幌へと決定された。19年6月道庁の藤田理事官から函館支庁長時任理事官あてに師範学校処分に関する6か条にわたる決議案が送付されてきた(同前)。それによると師範学校は札幌に合併し、函館には「(凡五千円乃至六千円ヲ以テ)商業学校ヲ設ケ、且中学教場ヲ開キ、女子師範学校モ之ニ合セ彼是教員兼務セシムル事ニ決定致候、右ハ商業学校設置ノ手続、東京商業学校長及幹事ニ就キ追々取調為致居候処、校長ノ意見ニテハ卒業生又ハ同校教員中ヨリ二名(中一名ハ校長兼務俸給五十円位、他ノ一名ハ二十円乃至二十五円位)採用、他ハ在来ノ師範学校教諭等ニテ二、三名有之候得ハ可然トノ事ニ有之…依テ先ツ本年度ハ五十名位ノ生徒通学授業料ヲ収メシメ入学セシムルモノトシ開校為致見込」というもので、出京中の長官へは一応稟議、許可を得ているというのだった。これに対し函館支庁からは翌7月、経費以外は「大体ニ於テハ異存無之候」という回答がだされた。中川視学官の書簡以後わずか3か月ほどのことだった。
同年九月十七日、函館・札幌の両師範学校を廃止し函館の元町に商業学校を設置することと札幌に尋常師範学校を設置し北海道師範学校と称することが告示された(『北海道庁布令全書』)。商業学校の開校期日については〝後日〟ということで、とりあえず元町に北海道師範学校の分校が置かれ女子師範の生徒が収容された。この分校は翌年三月初等科五名・中等科四名の卒業生を送り出した後、四月十六日付けで廃校となり、函館における師範学校は完全に消滅したのである。北海道の教員養成の先駆けをなし、多数の東京師範学校卒業生を招いて小学教科伝習所から師範学校へと徐々にその内容の充実・拡張を図りながら道内教育の中心となってきた函館師範学校は、北海道の中心が札幌に移ると共に、実にあっさりと函館からその姿を消したのである。
函館師範学校の初代監督だった村岡素一郎はこの時期札幌におり、函館支庁の学務係あてに「二ケ所ヲ纏メニスルコトハ文部省ノ内意モ有之管理上経済上誰レシモ異論ハ有之間敷ナレトモ、函館ニ合併スルカ札幌ニ合併スルカニ至リテハ随分各自所見モ相違可有之、目下有形上ニ就テ考レバ学校ノ規模広狭札幌ハ函館ニ不若、器械類ノ整頓職員ノ良否等ニ至ル迄決シテ函館ニ不及、右等ノ事情有之ニモ不関札幌ヘ引移リ候ハ、充分拡張スルニハ道庁長官ノ直轄ナラザレハ、支庁下ニテハ無覚束右様ノ事情ニテ相決候事ト被察候」(函館県『教育』所収「師範学校書類」)と書簡を送り、当事者として函館へ師範学校を統合できなかったことへの口惜しさを伝えている。