即ちこの報告文では、前記の両分会の件を中心に、協会の組織論が次のように展開されている。それは、最も会員数の多い磯谷分会の休止に対してはそのすみやかな「再興」を期待しつつ、戸井分会については、「独立ハ可ハ則チ可ナリト雖モ、凡テ結社事業ノ盛大ハ決シテ孤立ヲ以テ望ム可キニアラス」というものであった。
そしてこの報告文は、最後に次のように締めくくっている、「即分会ヲ設クルノ旨趣ハ元本会ノ目的ヲ伸達スルノ用意ニシテ、敢テ本末主従ヲ区別スル為ニ在ラサルコトナリ。是レ其力ヲ本会ニ協セ、同シク教育ノ振起ヲ謀ルニ於テハ、固ヨリ常会員ト各地会会員トヲ問ハサレハナリ」。ちなみに、磯谷分会も戸井分会も、ともにその会員数は17人であった。次に触れるが、明治16年の協会々員数が149人と言われているので、両分会の会員数はその約23パーセントを占めており、協会に与えた影響力もかなりのものがあったことは容易に想像できよう。