協会の活動状況の掲載を委託している『北海道学事新報』の未刊行は、会員との連絡が疎遠となることを意味し、同年6月末から7月にかけては、会員の間に「疑訝ヲ懐カシメ」る事態にまで発展した。そのためか、協会の活動は同年6月より第2期に入って、村岡会長、村尾副会長以下の役員による新体制が発足したばかりであるにもかかわらず、6月17日の第1回定例会は流会となった。7月1日の第2回定例会では、会費の値下げ、『北海道学事新報』の発行を月2回から1回とし、「紙数ヲ増シ体裁ヲ改メ要用ノ事項ヲ登録スル事」などを学事新報社に依頼することになった。その際、「新報ノ編纂発行ヲ本会ニ引受ケ本会新報トセント云フ発論」もあったが、「其損益売捌ノ如何」が不明なため、この件は次回に持ちこされたのである(『函館教育協会雑誌』第1号、明治15年10月7日発行)。7月15日の第3回定例会では、再び前記の問題が取り上げられ、『北海道学事新報』の編纂、発行は協会で行ない、販売を学事新報社に依頼する案が協会の委員側から出されたが、村岡会長の不在や反対論もあって「論未タ何レニ決スルヲ知ラズ」という状況のまま、再度7月31日に臨時会を開くこととなった。同31日、翌8月1日にわたって開かれた臨時会でも、この会報問題は決着をみなかった。とりわけ8月1日には、「非販売」のまま「本会雑誌ヲ刊行シ本会ノ討論演説通信報告等ヲ記載シテ本会ニ頒ツ」という案も出されたが、その「決ヲ多数ニ問フニ可否相半ス」という状態であり「会議ヲ後日ニ譲リ散会」した(同上書、第2号、同年10月30日発行)。
結局、この会誌発行問題が落着したのは、9月2日の第6回定例会においてである。その最大の原因は、7月25日をもって北海道学事新報社が『北海道学事新報』の休刊届を出していたためである。これにより、いわば協会としての広報手段を失なうことが明白になったため、事態の打開をせまられた函館教育協会は、同日、会員11名出席の下にこの件を検討し「異議ナク毎月一回本会雑誌ヲ発行スルコトニ決シ」(同上書、第3号、同年11月30日発行)、佐藤重記、村尾元長、内山例之助、小松三平、原辰四郎、浅岡八重吉の6名を編纂委員に選出した(同上書、第1号)。