だが明治30年代中期になると、函館教育協会の活動にも次第にマンネリズムの傾向が現われつつあった。『函館教育協会雑誌』第153号(明治35年3月25日発行)に、「函館教育協会拡張の主旨」と題する無署名の巻頭論文が掲載されているのは、こうした協会の活動に対する危機感の現われとみることができる。この論文の主旨は、まず創立以来20年を経た教育協会の諸活動が「輓近概ね不振に傾き較もすれば直接教授の業を採れるものゝ一部集合に終らんとするの処」ある点に警鐘を鳴らしている。その対策としては、協会組織の拡張が何よりも先決問題であるが、その有効な方策としては「従来局部の集会に傾かんとせしものを挽回し汎く各種の人物を多方面に求め」るべきであるとして、「多方面の人士に入会勧誘」を行うことを提言している。
このような主張の背景には、函館教育協会がいち早く設立された明治14年段階とは異なって、「数千の会員と数万の資金とを以て着々其業を進め(中略)全道教育界を独占せんとする」勢いの北海道教育会や、また津軽海峡を越えた対岸で「互に輿論を新興し意見を集注して常に斯道に貢献しつゝある」東北各県教育会に較べて、あまりにも不振を極めているかにみえる函館教育協会に対する焦燥感が存在していたものと思われる。
明治35年8月3日発行の同誌第158号にも、『函館教育協会雑誌』の編集方針や、例会活動を批判した幸東生「希望の数々」、蒲生暁風「本会誌の将来に関して敢て会員諸彦に警告す」という2編の投書が掲載されているのは、同じ理由によるものであろう。