このような函館教育協会内部からの改革への動きが、やがて明治37年1月の名称変更(函館教育会)や同40年の組織変更(社団法人化)に帰結してゆくのであり、函館教育会の活動は新たな段階を迎えることとなるのである。
なお、この時期の協会の組織規模であるが、例えば明治34年12月末現在、会員数は215名(名誉会員10名、通常会員205名)で、通年では入会者67名、退会者59名、差引き8名の会員増である。会誌の刊行状況は、同34年度に148号から152号までの5冊、1280部(1号平均256部)を発行している(『函館教育会雑誌』第153号)。また、その後の会員数をみると、明治37年2月-241名(内10名は名誉会員)、同年6月-255名、同年10月-264名、同年11月-257名、同38年5月-249名、同年8月-250名、同年11月-253名、といった推移をたどっており、明治30年代末には、ほぼ250名の会員数を境として、若干の増減をくり返しているに過ぎない。