開拓使の神仏分離観

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 こうした地方における順調な神仏分離を受けるかのように、開拓使は明治5年10月に次のような北海道の神仏分離政策を教部省に報告した。
 
寺院境内私祀致来候金毘羅天・弁財天・大黒天・水天宮・八大龍王・或ハ龍神・咜尼天・歓喜天ノ如キ、全ク皇朝ノ神祇ニアラズ(中略)御国民竺土ノ神ニ祈祷イタシ候テハ敬神ニ途ニ出ルニテ、別テ北海道ハ蒼創ノ地、愚蒙新民教育ニモ障リ可申候間、一切廃除申付候見込ノ事
(『神道大系北海道』)

 
 つまり、開拓使は金毘羅天・弁財天を初めとする天竺=インドに由来する仏教的な神々を「北海道ハ蒼創ノ地」=新天地ゆえに思想教育上からみても好ましくなく、断固排除すべき神であることを中央の教部省に対して報じたのである。
 開拓使のこうした強固な神仏分離の表明は、当然のごとく神官による現実の神仏分離作業にも反映していった。明治5年の開拓使による神社改正に伴う社寺取調の任に当ったのは函館八幡宮祠官菊池重賢であったが、彼の取り調べの眼はかなり厳しかった。例えば、小樽高島村の稲荷社を調査しては、「神璽二勧請、外ニ仏体一有之、此分取除ク」、また函館豊川町の豊川稲荷社を調べても、同社に安置されていた銅像の神体を「此銅像ヲ廃シ神鏡・和弊ノ内ヲ以テ改祭スベシ」(同前)というように、稲荷社については悉く廃止を迫っていた。