それは「植民上有形保護ト共ニ無形的保護ノ必要アル(中略)無形的保護則チ神経衛生ハ道学的ノ教育ニ依リ精神ヲ鍛練シ人欲ヲ調節スルニ在ルヲ以テ今日ノ形勢自ラ宗教ニ依ラサルヲ得ス」ことを前提にした、「移民タルモノ多少進取ノ企アルヲ以テ業務上遭遇スル失望ト失敗トヲ感スル度ヲ減シ比企図ヲ阻喪セズ除々ニ成功ヲ期セシムルハ宗教ノ力能ク為ス所」、あるいは「当道植民ハ真個ニ国防上ノ関係アルモノナレバ護国ノ精神ヲ涵養スルノ宗教ナラサルヲ得ズ(中略)移民ヲシテ護国ノ精神ヲ発揚振起シ以テ敵愾心ヲ旺盛ナラシムルノ宗教ハ思フニ、仏教ニ如クモノナカルベシ」(『北海道宗教殖民論』)と説く、いうなれば、宗教の中でも仏教によって精神を完全武装したところの宗教移民によって、遅々として進展をみせない北海道開拓は初めて達成されるという、まさしく「宗教殖民」にもとづく開教である。
北海道寺院が、この第3次開教の「宗教殖民」論を提示したのは、明治25年のことである。
このように、北海道の近代開教史は北海道開拓の歴史と裏表一体の関係をもちながら展開したのであるが、第3次開教はどちらかといえば、内陸型開教を念頭に置いたものであるから、函館の近代仏教界にとってより直接的に関わり合ったのは、第1次および第2次開教までである。明治25年に出された第3次開教の時期の函館仏教界は、北海道における先発地域として、内陸型開教をよそに独自の営みを展開していた。