教部省の設置と教導職

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 近代における宗教政策は、既述したように一般的には明治初年の「神仏分離」・「廃仏毀釈」運動に象徴されるごとく、神道の国教化=仏教界の圧迫という施策の中にその幕が開く。言うなれば、近世幕藩体制の世に寺請制度を介して国教化していた仏教が、その主座を神道界に奪取されることに近代宗教史が開始したのである。北海道・函館地方にあっても、「廃仏毀釈」運動を別とすれば、不徹底とはいえ「神仏分離」は実施されていたのであり、その意味では例外ではなかった。かと言って、北海道の近代宗教界が本州と全く同じ歩みを示したわけでもなく、そこには甚だ北海道的な営みがあった。寺院による「開教」=「開拓」を奉じた宗教実践がそれであり、神社による民衆の地域「定着」の促進がそれである。そうしてみれば、近代北海道の寺社勢力は、本州のそれと違い、幕末の延長上に立ちつつ、ともに広義の「開拓」を宗教的課題にしていたとみなしていいだろう。
 それでは、北海道・函館の寺社勢力はこの「開拓」だけを宗教課題としていたのであろうか。勿論、そうではない。もう1つ重要な宗教課題があった。この第二の宗教課題というべきものは、じつは、明治政策の次なる宗教政策の転換の中に生じたものであった。
 明治政府は明治5(1872)年に至ると、突如、これまでの仏教界の圧迫による神道の国教化政策を軌道修正し、教部省を設置して、教導職14級の制度を定め、仏教界を加えた国民教化に乗り出した。政府は近世期に醸成された仏教界の隠然たる庶民教化力を無視できなかったのであろうか、仏教寺院を活用しながらの国民教化に方向転換したのである。すなわち神官・僧侶をそれぞれ教正・講義・訓導などの教導職に任じ、その教導職には
 
一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキコト
一、天理人道ヲ明ニスベキコト
一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキコト
(『明治文化全集』宗教篇)

 
 という「三条の教憲」をはじめ、11兼題・17兼題などを授けて国民の教導に当たらせたのである。11兼題と17兼題とは、「三条の教憲」を敷衍したもので、前者は神道の知識を、後者は政治・社会・時事などの問題をその主たる内容としていた。
 要するに、寺社の教導職による国民教化とは、一言にしていえば、「三条の教憲」に象徴されるように、祭政一致の近代天皇制の周知徹底ないしは浸透に他ならなかったのである。神官に対して「氏子中、無識無頼ノ徒無之様、普ク勤学致サセ文明ノ治ヲ裨ケテ祭政一致ノ本旨ヲ深ク体認可致」、あるいは僧侶に対して、「壇家ノ子弟ニ無識無頼ノ徒無之様、篤ク三条ノ意ヲ体認シ衆庶チ教導シテ地方ノ風化ヲ賛ケ政治ノ裨益相成候様可相心得」(「開公」5735)と求めていた文言は、何よりもそれを裏付けていよう。
 北海道・函館の教導職には、「外ハ洋教ヲ防キ、内ハ倫理ニ敦ク各自ヲシテ其業ヲ励ミ義務ヲ尽サシメンヲ期セリ」(「開公」5776)というように、洋教=キリスト教流布の防止も併せて要求されていた。
 このように、北海道・函館の近代寺社勢力は、明治5年、キリスト教の防止というやや特殊な任務も帯びながら、前の北海道開拓という第一の宗教課題に加えて、国民教化という名の近代天皇制の教宣を第二の宗教課題に負うこととなったのである。
 「三条の教憲」が全国の津々浦々に発布されるのと時を同じくして、東京に皇学・仏学・漢学・洋学の4学科を研修する僧侶の研究機関たる大教院の開設が決定された。また各県には、中教院を1か所、全国の全ての寺院を小教院とすることも併せて決められた。
 明治初年の「仏教の圧迫による神道国教化」政策の修正結果として打ち出された「教導職」を媒体とした「寺社による国民教化」政策は、明治5年にスタートし、教導職が廃止される明治17年までの12年の間、存続したことになる。教導職の廃止以後、明治政府の宗教政策はその総仕上げともいうべき、第3期=「国家神道の確立」に突進することは言うまでもない。
 してみれば、北海道・函館の寺社勢力は、明治5~17年の間、前の北海道開拓という課題に加えて、近代天皇制の喧伝という宗教課題も自らに課しつつ活きていたことになる。次にそのより具体的な活き方を探ってみることにしよう。