しかし順風を得て好調な船出をした函館地方における教導布教も、予期せぬ出来事で一時、混乱を極めたことがある。一つは船出して間もない明治6年であり、今一つは明治8年のことである。
明治6年の混乱とは、函館中教院にいちはやく赴いた教導職である七星正泰・植田有年・深川照阿らの後に渡道布教していた堀秀成・河井順之の2人の教導職が、福山出張中に女色に溺れたり、説教費用の私腹化を働くなどの不行跡が発覚したのを契機に、教導職の間に軋轢が生じたことである。この不詳事は当然のことながら、地方・中央に知れ渡ったが、情報が錯乱してか、函館支庁の杉浦中判官は堀・河井の両名を庇護し、彼らの帰京時には賞賜の議さえ上陳していた。
一方の明治8年の混乱とは、中央におけるかの浄土真宗の大教院分離問題が引き金となって派生したものである。
すなわち、浄土真宗の僧の島地黙雷による「政教異ナル固ヨリ混淆スベカラズ、政ハ人事也、形ヲ制スルノミ、而テ邦域ヲ局レル也、教ハ神為也、心ヲ制ス、而テ万国ニ通ズル也」(『明治文化全集』宗教篇)という政教分離論を前提に、大教院から浄土真宗が明治8年に分離し、ここに明治5年に始動した教部省-大教院を中心にした寺社共同の国民教化体制に亀裂が生じようとしたのである。この真宗の大教院分離の報は、勿論北海道にも達したのであるが、大教院から発せられた「中教院ノ事、神官僧侶議論難決シテ不得止ノ分ハ(中略)地方ノ適宜ニ従ヒ、各宗申合セ僧侶ノミ神速ニ取結ビ当分、合議所ト称シ、粗中教院ノ規則ニ准シ学生養育シ且ツ布教ノ合議ヲ遂ゲ(後略)」(明治7年「教部省関係書類」道文蔵)という達しを、松前と函館では区々に解釈して認識したのである。松前はこの時期、仏教界においても、神道界においても教勢力の点では函館の風下に追いやられていたのであり、過去の栄光を夢みながら、何らかの捲土重来を虎視眈眈と狙っていたことは推測に難くない。
事実、松前においては前の大教院達しを「今般大教院六宗管長より別紙写ノ通、布達有之候ニ付、諸宗決議ノ上於法幢寺当分合議所取設、教育仕度奉存候」(同前)というように、浄土真宗の分離を、大教院の教導体制の内部分裂と早合点し、旧来の函館中教院に代るものとして、「合議所」を松前法幢寺に設置したいと主張したのである。
この松前の合議所設置申請を受けた函館支庁の杉浦中判官は、「当使管下福山第一区法幢寺ニテ当分ノ内合議所取設布教候旨、伺出候得とも、当使ヘハ未ダ何等ノ御通達も無之、事実判然相分兼候ニ付、都テ従前ノ通、可心得旨其筋ヘ申達候」(同前)と、開拓使には未だ合議所設置についての正式な通達もないのであるから、これからも旧来通りに教導したい旨を大教院に上申したのである。
この浄土真宗の大教院分離に端を発した松前の合議所設置要求と、函館中教院の教導体制を変更なく推進しようとする函館側の対応との間には、想像を超えるライバル意識が交錯していたに相違ない。
函館中教院を中心とする教導体制は、この一時的な混乱を無難に乗り切り、明治17年まで存続したのであるが、上からの至上命令的な教導体制の実施に当っては、その地方固有な歴史事情に応じた矛盾点なり問題点があったことを、右の2つのトラブルは歴史を越えて教えてくれている。