キリスト教の伝道の波は、市中にとどまらずやがて近郊へと及んでいくだろうことは当然のごとく予測される。事実、明治11年5月22日と11月4日付の記事として、上磯~札苅方面にも相当の帰依者が現われ、神官や僧侶の教導職も、宣教師の施す説教に大きな刺激を受けていたと報じている。
函館においてキリスト教の復活祭が4月13日の宗教行事として初出するのは、どうやら明治12年のようであり、とりわけ天主公教(カトリック天主堂)のそれには市中の多くが参詣に赴いていた(明治12年4月14日)。
当時の耶蘇大祭あるいは基督隆生祝日、今日のクリスマスが初出するのは、明治17年12月25日のことである。それは年とともに、キリスト教が庶民化していく一つのバロメーターを示すかのように市民の心を確実に捕捉していく。その1コマを、明治21年12月25日の「函館新聞」は、時を越えてこうメッセージしている。
基督隆生祝日ハ近来東京横浜をはじめ之を祝して集会贈物をなすもの年々にさかんなりしが当地にても本日ハ同祝日なりとて居留の英米人の家々ハ素より元町遺愛女学校等にてハ、前夕より賑はしき集会を開き種々の音楽遊戯等を試ミ、又祝ひの松へハ種々の贈品をむすび生徒又ハ懇意の子供達へわかつ抔なか々々面白き光景にてありしといふ |
このように、キリスト教は一歩一歩ここ函館の地に根を下ろしていくのであるが、前の「洋教一件」を想い起こすまでもなく、神仏の世界に住む人々にとっては、このキリスト教が庶民化することは、たとえ信教の自由とはいえ、大いに警戒の念を抱かざるを得ない由々しき事態であったことも、もう一方の事実である。現に、国家神道の成立期とされる明治23~4年の頃に至ると、「排耶蘇教演説会」が時を置かず頻繁に市中のどこかしこの寺院で実施されるようになる。これは逆からいえば、国家神道の支柱である神仏界が、キリスト教に対して極度なまでの警戒心を抱懐していたことを示しているのである。
その意味で次の明治14年6月9日の新聞に掲載されている神道事務局のキリスト教観は甚だ象徴的である。
各地とも耶蘇教を信する者ハ男子よりも女子の多きは全く婦女子に教育なきゆえ、宣教師の甘言を信じ理非を弁別する能はざるより起こるものならん |
体制を担う側では、このように、この段階におけるキリスト教への入信を、無学の婦女子が宣教師の甘言に乗せられた結果と認識しており、その意味でかなり皮相的なキリスト教観を持っていたと言わなければならない。
それでは、体制の宗教世界を支えていた神社と寺院は、函館の地において具体的にどのような近代の日々を送っていたのであろうか。次に節を改めて、少しく眺めてみることにしよう。