教導職の廃止と寺院

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 寺院といえども、それが歴史的な存在である以上、常に社会的規制は免れ得ない。寺院は社会的在り様に左右されながらしか存在し続けることは出来ない、といっても間違いではないだろう。
 それゆえ、函館の近代寺院は既述したように、神仏分離以後においては、明治政府の宗教政策に則り、神道とともに体制宗教の立場をとりながら北海道開拓=開教に専心しつつ、教部省の末端機構として、近代天皇制の浸透・定着に務めたのである。明治5年の教部省の設置に伴う教導職としての国家奉仕者=寺院こそが、その偽らざる寺院の姿であった。
 このように、寺院が北海道開拓を開教の形で推進しながら、それと同時進行的に、教導職として近代天皇制の浸透を図ったのは、教部省が設置された明治5年から教導職が廃止された明治17年までの12年間のことである。
 明治17年に及んで教導職が廃されたということは、その段階において最早、近代天皇制の浸透が一定程度、実を結んだことを意味しており、時流は刻一刻と「国家神道」の成立へと向って流れていたのである。
 前掲の「『北海道寺院沿革誌』にみる近代寺院」の一覧(表11-3→北海道における近代寺院の造立と函館)に従えば、函館の寺院を本寺とする地方末寺は、年の経過とともに減少する傾向を示していた点が読み取れる。これはとりもなおさず、函館の近代寺院は明治初期に北海道開拓=開教をリードしたが、徐々にその任を「内陸開教型」の札幌方面の寺院に委ねたことを示している。
 そうしてみれば、函館の近代寺院は、北海道開拓=開教の推進者としての顔もあるいは近代天皇制の浸透者としての顔も、明治17年の教導職廃止を一大転機として、大きく変容させたことになる。では、函館の寺院はどのように変化して明治20~30年代を活きたのであろうか。