それは、他でもなく明治23年4月12日付の仏教演説会の演題、「耶蘇教徒の迷夢を驚す」が如実に物語るように、仏教によるキリスト教排撃が顕在化していたことである。
明治17年の教導職の廃止によって、ややもすれば地域的結合を欠きかねない函館の仏教界は、それを克服するために、明治20年の頃までには「六和会」なる仏教倶楽部を結成していた。この寺院同志の横の関係を保つべく組織された「六和会」こそが、実は仏教演説会を積極的に推し進める母体であったのである。
明治17年の教導職廃止以後、仏教界によるキリスト教排撃演説が日常的に行われるようになったことは、見方を換えていえば、それだけ函館市中にキリスト教が庶民レベルで受容されていたことを示している。前にみた耶蘇大祭=クリスマスが、市中に明治17年を初出にして登場し、年々盛んになって行ったことは、まさしくこの仏教界によるキリスト教排撃演説会の盛行と表裏するものに違いない。
仏教界がこの時期、キリスト教を排撃したのは、独りキリスト教の流布による宗教的危機感からであろうか。思うに、明治20年代初頭は、いわゆる「国家神道」の成立期でもあったことに思いを致すなら、そうした時代思潮もまた、仏教界のキリスト教排撃の気運を助長したに相違ない。
キリスト教の市中流布、国家神道の成立という2つの思想背景を受けて、仏教界によるキリスト教排撃演説は盛行したのであるが、では、この思想傾向はそれ以後も連綿と継続したのであろうか。答えは否である。
「函館新聞」は明治37年7月14日付の記事として、こう報じている。
日露の戦争は社会万般の事に影響す。宗教亦固より其の影響を被らざること能わず(中略)国民の精神を鼓吹してこれを英霊の気に充たしめこれをして光明の慈悲に浴せしむるは実に宗教家の本分とする所、今の時は我等身を宗教に委る者区々たる宗教的感情を一掃し協同一致、大に宗教の妙趣を天下に宣布し、国家膨張、国運勃興の根本に培ふべきの時にあらずや |
宗教界は、日露戦争のなか、その区別を超えて一致団結して、事に当たるべきことを呼びかけたのである。臨戦態勢という国家の非常事の前には宗教的差異は必要ではなかったのである。
事実、この明治37年前後の新聞記事には、神社のみならず寺院の戦勝祈願の記事も数多く報じられている。
このように、明治17年以後の函館宗教界は、寺社によるキリスト教排撃を基調としながらも、日露戦争という非常時には、大同団結をするなど、全体的にみて、相互が比較的自由に自己を主張し合える状況の中にあった、と見なしてそう大過ないだろう。
一見、平坦のように思える近代函館の宗教世界も、どうやら明治17年をひとつの転機にして、政府主導の時代から各宗教が市民と溶け合いながら独歩できる時代へと変貌していったのである。これこそ寺院の機能的変遷に他ならない。