さて、公立函館病院はそのまま区の予算で続けられていたのだが、経営が困難でついに明治17年9月に函館県に請願して、県立函館病院となった。経営困難の理由として、17年6月17日の「函館新聞」には、次の2つの理由があげられている。「第一当区内ニ二個ノ公立病院アルハ少シク其適当ヲ失セル」、「第二逐日医学ノ進歩ヲ来タシ市中開業医等ニモ恰当ノ人物アリテ、患者ノソノ治療ヲ受クルモノ増加スル」。こういうわけで、2個の病院の負担は函館区民ができるものではないという論であった。さて19年3月に県は北海道庁の設立により消滅したので、病院は庁立函館病院と名称を変えた。もちろん経費は道庁費で賄われたが、行政的には函館支庁警察本署の所轄となった。ところが、庁費をもって運営されていた函館病院は、道庁の方針により23年に函館区に移管され、4月からまた区立の病院となった。経営難から県に移管したものが、再び道庁の都合で戻されたわけで、前途は決して楽観できなかった。『市立札幌病院九十年史』によれば組織的には、この時に設立された「庁立北海道病院」に各地の公立病院が管轄されたのだという。医員たちは北海道病院医師で函館病院兼務という扱いで、俸給も道庁から支給されたのである。しかしこの庁立北海道病院の存在期間はわずか1か年で、24年3月の廃止と同時に医員たちの俸給の出所もなくなった。函館区は苦心の末、区費からそれを捻出したが医員の減員減俸につながり、院長深瀬鴻堂はじめ副院長その他、多くのものが辞職した。ここに至って、函館病院医員の陣容は大きく変容したのである。その年5月に新任の院長佐方潜蔵が着任したが7月に辞職、8月、その後任に佐藤廉が就いた。新院長は市内の開業医を嘱託として病院に勤務させたり、医療器具を新しくするなどして再建を計ったのである。
33年、病院炊事場からの出火により、函館病院はまたしてもその院舎を失ってしまった。病院の職員と患者はとりあえず、豊川病院へ避難したものの再建の見通しはたたなかった。そこで豊川病院に合併するということで、函館病院という名称の病院はこの一時期ついになくなってしまったのである。なお函館病院の院長佐藤廉が豊川病院の院長に就任し、豊川病院の院長であった後藤厚は副院長になったが、間もなく後藤も含め豊川病院の旧来の医員たちは辞職してしまった。一方函館病院の焼け跡では、残った小さな家屋に、函館病院の嘱託となっていた斉藤与一郎が函館細菌検査所を設けていた。