公立豊川病院と黴毒治療

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 前述した通り、豊川病院は端的に言えば、東部地区の一般住民を対象とした病院であったのだが、公立となって新築された函館病院との兼ね合いで、明治16年以降少し性格がかわってくることになる。それは娼妓の黴(ばい)毒治療を一手に引き受けるようになったからである。その経緯は次の史料からわかる。
 
 娼妓黴毒患者アルトキハ従来函館病院へ入院治療セシメタリシガ、同所新築ノ主旨タルヤ尋常ノ患者又ハ、外国人等入港治療ヲ請フ二際シ差閊ナカラシメ、以テ開港場ノ体面ヲ維持セント欲スルニアリ、然ルニ娼妓黴毒患者ヲシテ之ニ入院セシムルカ如キハ特(ヒト)リ其ノ設立ノ主意ヲ失スル而已ナラス、亦体面其宜ヲ得サル儀ニ付、今般同院管理引継ヲ受ケ其経済ヲ異ニセザル以上ハ、豊川病院ヲ以テ専ラ之ニ充テ(余ハ外来患者ノミヲ扱フモノトス)他ノ入院患者ハ総テ函館病院ニ移シ以テ一層取締リ方法ヲ設ケントス、依テ茲ニ其会ノ意見ヲ諮問スル所ナリ
函館区長代理                   
区書記 林悦郎
          明治十六年三月 日
(明治十六年「通常区会並臨時会議案其他綴込書記控」)

 
 これは区会に提出された議案であるが、新築の函館病院は一般患者と外国人の治療が目的であって、「娼妓黴毒患者」もここで治療するのは、開港場の体面に関わるというのが当局の言い分であった。これには東部地区住民の便宜を考えて反対する立場と、伝染性の黴毒患者は一般患者と隔離すべきという観点から、賛成する立場とが対立し議論を呼んだが、最終的には、可決となった。これにより、総数5室の病室は黴毒に罹患した娼妓たちが専ら占拠することとなったのである。ただし、外来患者については従来通り一般患者の診察も行われていた。