西洋医学の導入

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 明治7年の「医制」の発布は近代的な衛生行政の第一歩であった。『内務省史』第3巻をみれば、この医制のねらいは、(1)文部省統轄のもとに衛生行政機構を確立し、(2)明治5年に頒布された学制とあいまって西洋医学に基づく医学教育を確立し、(3)この医学教育の上に医師開業免許制度を樹立し、(4)近代的薬舗の制度を樹立して医薬分業制度を確立し、もって衛生行政の確固たる基礎を築くことであった。このような大前提の下で、様々な規則が作られ、衛生行政が展開されていったのである。しかしこれらの各目標に対する取り組みは、全国同一というわけではなく、当初は地方の実情にあわせて、地方庁が暫定的に掌握しているような具合であった。医師についてみてみると、医制では原則的には医学教育の課程を修め、2年以上の経験を有する者に開業の許可が与えられ、従来から開業しているものには当分の間、仮免状が与えられることになったのである。医術開業試験実施は、9年に各府県に指示されたが、全国的に行われるようになったのは、11年頃であった。
 函館の場合はどのようであっただろうか。まず10年8月に内務省から「維新以来医術ヲ以テ該官庁若シクハ教授ノ任ニ当リタルモノハ、志願ニヨリ試験ヲ不須直ニ免状可交付」という達が出た時には、開拓使に属する病院の勤務医たちはこぞって、願書を出して開業免許を与えられている(明治11年「医術開業免許鑑札交附録」道文蔵)。その後政府は12年に医師試験規則を達し、全国的な統一をはかった。この時は学校を卒業したものは試験を免除された。しかし、開拓使は13年に開拓使布達第6号「管内於テ従来医術開業ノ者ハ試験ヲ要セス仮免状交附候条、願書可差出、他府県管下ヨリ来リ免状ヲ所持セスシテ開業セントスル者ハ、試験ノ上許可スヘシ」として、この時も従来開業医の試験の免除を認めた。これはいわば救済的な措置であり、特に西洋医学に暗い漢方医への配慮であったと思われる。この時に願書を出した医師たちの名前は「明治十三年医術仮免状交付願届」(道文蔵)にあるが、漢方医はもちろんのこと、函館病院の医師たちもその名を連ねている。15年以降の函館の医師の免許についての区分は表12-2にある通りで、内務省の免許を有する医師は20年代半ばでようやく5割に達した程度である。さらに、試験を受けたものとなると、ごく少数でしかない。試験を受けた医者が多くなるのは、30年あたりからである。
 
 表12-2 医師免許種類
 種別

年次 
内務省免許医
従来
開業
その他
医師
総数
総数に占める
免許医の率
試験
卒業
履歴
明治 15
   16
   17
   18
   19
   20
   21
   22
   23
   24
   25
   26
   27
   28
   29
   30
   31
   32
1
11


9
9
13
14
16
23
24
24


32
27
30
25
12
2


2
1
1
5
7
6
7
10


10
10
11
1
0
10


17
17
15
18
14
14
14
13


9
7
7
2
43
52


39
48
49
48
45
50
31
40


7
29
28
2
2
3


2
0
0
4
0
0
0
0


0
0
0
0
58
78


69
75
78
89
82
93
76
87


58
73
76
30
22.4(   1.7)
29.5(14.1)


40.6(13.0)
36.0(12.0)
37.2(16.6)
41.6(15.7)
45.1(19.5)
46.2(24.7)
59.2(31.5)
54.0(27.5)


87.9(55.2)
60.3(37.0)
63.2(39.5)
93.3(83.3)

 『区役所統計概表』『函館区統計表』『北海道衛生年報』より作成
 ( )内は免許医のうち試験を経たものの率