明治初年の開業医の実態は、はっきりつかめないが、幕末から続いてそのまま営業を行っていたものはいたと考えられる。明治13年の「医術仮免状交付願留」に添付された各医師の履歴から、13年当時市中で開業していた30余名のうち、幕末から開業していたものが3名いたことがわかる。いずれも漢方医である。10年までにはさらに15名が新たに開業している。これら30余名のうち、そのほぼ半数は寄留というかたちで開業しており、東北各県や東京本籍のものが多い。洋医と漢方医の割合はどうであったろうか。8年の、全国的な比率をみると、医師総数2万2527人のうち、洋医がおよそ22パーセント、漢方医が66パーセント、漢洋折衷医が11パーセントであった(『日本の病院』から作成)。この分類に準じて先程の函館の開業医をおおよそ、その履歴からみてみると、洋医は約39パーセント、漢方医が45パーセント、漢洋折衷医が16パーセントである。漢方医が多いのは全国と同様だが、洋医の割合がかなり高いのが特徴的である。
ところで、市中の開業医の評判などが「函館新聞」に掲載されていることがある。例を引いてみると、ある漢方医はまやかしの丸薬や膏薬を用いて、高額の診察料や車代を請求すると非難の記事があったり、開拓使の免許がなく医療行為を行い罰金を申し渡された医者の記事もある。後者について13年10月9日付の記事から引用すると、「是だから言ねェ事か、お医者は成たけ気を着てか丶れ、迂闊摩耶かし賤生に出つ桑すと懸替のない大切な命を失くします」というわけで、当時の雰囲気がよく伝わってくるようである。正体の定かでない医者もまだまだいたのであろう。なお15年7月21日の新聞には「開業医取締」という記事があり、それによると区内の開業医一同が協議して、診察料や薬価などの定則を取り決め、その取締人3人を選出したことが載っている。明治中期になると、函館病院をやめて自分で開業を始める医師たちも多くなり、開業医の水準も高くなっていった。