明治7年の医制で、それまで薬の販売などを生業としてきた「薬舗」に関する規定が設けられた。またこの時、同時に医薬分業体制が企図された。翌8年には薬舗開業試験の実施を東京、大阪に布達し、次第に全国でも施行されるようになっていく。しかし函館区では、15年には従来営業のものが4名で、試験を経たものはなかった(『函館県衛生年報』)。薬剤師試験規則が施行されたのは23年であったが、函館での状況はわからない。34年の『北海道庁衛生年報』には、函館区の「試験及第」の薬剤師5名という記載がある。ここにいう薬剤師が、病院にいるのか、店舗を構えていたのかなど、実情は不明である。一方、看護婦は、22年11月、函館病院で看病婦講習会が設けられ、志願者に毎月6回夜間無料で看護法を教授し、卒業したものは病院に欠員あるときに雇ったと、『市立函館病院百年史』に記載がある。この以前から「看病婦」と呼ばれる人々がいたことがわかるが、これも実態はわからない。「看護婦規則」が制定されたのは大正に入ってからで、それまでは各地方庁の取締に任せられていた。こういった実情から、市中における近代的な医療体制はいまだ整備途上であったといえるだろう。