娼妓廃業願

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 明治5(1872)年の太政官布告により人身売買同様の所業は明確に否定され、その上で芸娼妓らが解放されたにもかかわらず、名称の変化だけで実態は解放以前と変わっていない貸座敷と娼妓の関係、つまり負債返済のために娼妓を貸座敷主の元に足止めし、稼ぎ高をもって返済させるという関係を、ここでは1つの廃業願をとおしてながめてみよう。
 8年8月「金銀貸借ニ付引当物ト致シ候ハ、売買又ハ譲渡ニ可相成物件ニ限リ…間ニハ人身ヲ書入致候者モ有之哉ノ趣、右ハ厳禁ニ候条…但期限ヲ定メ、工作使役等ノ労力ヲ以テ負債ヲ償フハ此限ニアラス」という太政官布告第128号が布告された。この布告の「但書」により、娼妓と貸座敷主間の金銭貸借における負債は、期限を定め、その期間内貸座敷主へ寄留し、娼妓営業という「労力」による収入で返済するというのが通例となった(牧英正『人身売買』)。実例を見てみよう。次は貸座敷主金子リウと娼妓阿部ハルとの間における169円の「借用証」とその債務返済のための「約定書」である。
 
   借用金ノ証
一、金百六拾九円也
             但御制限利子
右者拙家赤貧ニ迫リ糊口モ相凌カタク、加之四方ノ負債相嵩ミ候間、拙者娼妓ヲ営ミ、其働高揚代金ヲ以負債償還ノ義務相果度候ニ付、前書ノ金員正ニ借用候処実正也、依テ返済ノ方法左ニ約定致候事
第一 借用金返済ノ目的ハ、拙者義貴殿方ヘ寄留ノ上娼妓営業致、明治十五年五月ヨリ弐拾壱ケ月間毎月金八円宛、外ニ利子ヲ添ヘ、営業上得ル処ノ揚代金ノ内ヲ以、屹度返済可致事
第二 若営業都合ニ依リ他ノ貸座敷ヘ寄留換スルカ、亦ハ正業ニ転就センコト望ミ娼妓休業セント欲スルトキハ、前以負債償還ノ義務ヲ果スヘシ、其場合ニ至リ金調不行届ニ於テハ、本人ニ代リ保証人ニテ本文ノ義務ヲ果スヘキ事
(以下略)
            約定書
私儀今般別紙証書以借用致候金員返済ノ為メ、貴殿方ヘ寄留依頼シ、娼妓営業願済該業営ムニ付、営業中左ノ条件ヲ約定ス
一、三業御改正御規則ノ義ハ互ニ遵奉確守スヘシ
一、寄留営業中貴殿方ニテ飲食被取賄、且ツ営業ニ属シタル臥具其他座敷ニ附属ノ器什等、悉皆貴殿方ニテ貸与被下候定ニ付、揚代金折半シ、割持代金金壱円ニ付金五拾銭宛貴殿受用タルヘクヲ約定ス
一、税金鑑札料并入院賄料等ハ私働高ノ内ヨリ出金可致候得共、若働高右金員ニ不足ヲ生シタル節ハ、貴殿御方ニテ一時繰替、御規則期限通リ上納被下、追テ全快働高ヲ以償却可致約定
一、私働高揚代金ノ義ハ、毎月末入院賄料等ノ繰替金差引計算相立、残金ヲ以借用金済方可致約定
一、転業寄留換等総テ何時モ自己ノ勝手タルヘシト雖、貴殿ト私トノ間ニ於テ貸借アル時ハ、互ニ煩論ナク義務ヲ果シテ其筋ヘ御届、鑑札書換願等夫々手数ヲ経可申定
(以下略)
(明治十五年「函館区役所伺届」道文蔵)

 
 約定書を交わした年、阿部ハルは娼妓廃業を希望した。9年の「函館貸座敷芸娼妓営業規則」では、廃業については娼妓が正業に転就することを望む時はその意志に任せ「決テ束縛故障致間敷事」と、娼妓の意志による自由廃業を認めていた。このハルの廃業願に対し貸座敷主金子リウは、約定は取締人が「査閲ヲ経調印」したものだから取締人の消印つまり契約の完済がなければ認められないとしてハルの廃業願を拒否した。そこで取締人は自らの権限の解釈もあり、ハルの廃業を如何にすべきか区役所へ伺い出た。結局「本人が廃業を望むときは何人も拒むことはできず、それを聞き入れるべきであり、取締人の認印は契約時に関してのものであって、調印後の紛糾は民事裁判に属するものでる」という区役所の見解が函館県にも認められ、廃業願は聞き入れられてこの一件は落着した。つまり廃業願と負債の約定不履行については別問題であり、後者は民事裁判で扱うものであるというのが一般的な解釈となった。しかしその後者が、期限内貸座敷主へ寄留しなければならないということで「身体の自由を拘束」しているという押さえはなかった。
 またこの一件で取締人には約定履行の監視権限が無いことが明らかになったため、不当の廃業が続出、貸座敷を保護するために区は、15年9月「娼妓営廃業ノ儀ハ当分ノ内父兄又ハ身元引受人ノ外、貸座敷主連署ヲ以可為願出」と達した。そしてこの「貸座敷主連署」は、翌16年の「娼妓取締規則」にうたわれ、北海道庁時代に入っても、貸座敷は正当の理由なくして娼妓の廃業を拒むことなしとしながらも、一方では娼妓の廃業には「但娼妓ハ貸座敷主ト連署スヘシ」と、あくまでも貸座敷主の同意を必要とし、この「連署」が娼妓の自由廃業を拘束する最も大きな要因となったのである。そのため約定の不履行を理由に貸座敷主が廃業願を拒むケースが増えたようで、函館地方裁判所の16年以降の「民事事件簿」の中には、廃娼願書への捺印請求を扱った事件が何件か綴られている。その中で大審院まで送られたのが次の坂井フタの一件だった。